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夢盗奴  第五章

 二度目の発作のことは覚えていない。会社でのことなのか、それとも家にいるときなのか、はたまたその通勤途中だったのか?気が付くと病院のベッドの上に縛り付けられていた。聴覚以外の感覚を失って、孤独と絶望の日々を送っていたのだ。
 初めて洋子の話しかける声が聞こえた時、中条は必死で叫んだ。
「洋子、俺はここにいる。ここに居るんだ。助けてくれ」
しかし、その声は洋子に届かなかった。洋子は何事もなかったように語り掛けるだけだ。それまで中条は絶望の淵をさ迷っていたのだが、この瞬間、その淵から奈落の底にまっさかさまに落ちていった。
 それからどれほどの時を重ねのか。来る日も来るも自分の不幸を嘆き、その運命を呪い、終いには、発病の原因を洋子の作った脂っこい食事のせいだと結論し、最愛の妻、洋子さえ憎しみの対象にして罵った。
 そして、洋子がベッドサイドに座ることもなくなった。薄情女といくら罵っても、現状に何の変化もなかった。何度も呪いの呪文を唱えたが、その結果を確かめるすべもない。毎日が苦痛と絶望の連続だった。
 いつの頃からか、白髪の老婆が迷い込んでくるようになった。老婆は明らかに狂っていた。中条を自分の息子だと思い込んでいる。部屋のネームプレートを見たらしく、中条を「翔ちゃん」と呼ぶのである。もしかしたら、息子が同じ名前だったのかもしれない。
 狂人の話など聞く気はなかったのだが、朝の心地よい看護婦の声の他、人の話を聞くこともなく、時間つぶしになると思い、耳を傾けることにした。老婆の子供は交通事故で死んだという。じっと動かない中条を、自分の子供だと勘違いして話しかけてくるのだ。
「まったく、翔ちゃんには泣かされっぱなしだった。出産の時だってそうだ。翔ちゃんは私の腹を散々蹴っ飛ばして二度と子供が生めない体にしたんだ。翔ちゃんは私を独占したかったから、妹や弟が産まれないようにしたんだ、そうだろう、分かっているんだ」
『おいおい、おばあちゃん、考え過ぎだって。そんなこと赤ん坊が、考えるかよ。腹を蹴ったからといって、赤ん坊のすることだ、たかが知れてる』
「分かっているんだ、惚けるんじゃない。お前は覚えていないだろうが、公園で可愛い女の赤ちゃんがいて、私はお母さんに抱かせてって頼んだんだ。抱き上げて、頬ずりして、高い高いをしてあげた。ふと、バギーにいるお前を見下ろしたら、お前は憎憎しげに私を睨んでいた。そして火がついたみたいに泣き出したんだ」
『それも婆さんの思い込みだよ。赤ちゃんが人を睨んでいる顔なんて想像もつかない。やっぱりお婆さんは病気だよ。お医者さんに見てもらった方がいい。とにかく、まさに思い込みだ。それ以外にない』
「いいや、思い込みなんかじゃないよ。私は見たんだ。憎憎しげに睨むお前の顔を見たんだ。まさにホラー映画を見ているようだった。確か、昔あったじゃないか、二人で見た映画、そうそうダニアンとかいう悪魔の子供の映画だ。それを思い出したもんさ」
中条はおやっと思った。中条は心で語りかけたのだが、婆さんはそれに反応するように言葉を返した。もしかしたらという思いが胸を急激に熱くした。コミュニケーションが可能かもしれないと思ったのだ。中条は必死に叫んだ。
『婆さん、婆さん。俺の言ったことが分かったのか?おい、分かったら返事をしてくれ。頼む、答えてくれ』
「父さんが死んだのも、お前のせいだ。お前は父さんに嫉妬していた。だから、お風呂場で倒れたお父さんを放っぽらかしにして、ピヨピヨアヒルで遊んでいた。もし、すぐに救急車を呼べば助かったんだ。分かっているのよ。私を独占したかったんでしょう?」
何を話しかけても、ただただ子供に対する恨み辛みを訴え続けている。期待し過ぎた分、その反動も大きかった。中条は、まるで階段を踏み外したかのように絶望の深みに落ちてゆくしかなかった。
 狂人の言葉が続く。涙も出ない。こんな狂人にすがろうとした自分が情けない。しかし、中条は、人とのコミュニケーションを欲していた。それは、洋子が何故来ないのか、そして勝はどうしているのか、それを確かめたかったからだ。
 洋子は、最初のリハビリで、あれほど親身に、そして時には厳しく、励ましてくれた。それなのに、今度の発病では、最初の頃何度か顔を出しただけで、その後はぷっつりだ。ましてあれほどなついていた勝が何故見舞いに来ないのか。
 訪問者は相変わらず、朝の看護婦、そして月に一回やってくる老婆の二人。朝の愛しの君はいつも優しく声をかけてくれる。老婆は来るたびに30分ほど息子の悪口を言いまくって帰って行く。中条に語りかけるのは、この二人と時折迷いこむ虫達だけだ。
 老婆の話は、最初は赤ちゃんの頃から始まったが、ふた月目は幼稚園、み月目には小学一年と順を追って進んで行く。次第に煩わしく、嫌気がさして来て、この頃は頭の中でビートルズを歌いまくって聞かないようにしている。
 老婆が帰るとほっとする。確かに性悪の息子だったのだろう。しかし、それは自分の育て方にも問題があったのではないかと思う。何故なら、全ての責任を息子に押し付け、自ら省みることはない。子供は愛情をかけてさえいればまともに育つものだ。
 勝を見ればそれが分かるはずだ。勝が見舞いに来て、この老婆と鉢合せしないかと思うのだが、そんな機会など巡ってこない。何故、勝は来ないのか。きっと何か訳があるにちがいないのだ。洋子が俺の知らぬ間に離婚届けを出している可能性もある。
 もしかしたら、と思う。元気だった頃に抱いた疑惑、洋子と阿刀田先輩との疑惑が突如浮かび上がった。狂おしいほどの嫉妬が胸を掻き毟った。
『許さんぞ、貴様、許さん、阿刀田そして洋子、殺してやる。呪い殺してやる』
突然、大きな吠えるような声が聞こえた。中条は思わず、辺りを窺ったが何の気配もない。不気味な静寂の音がしーんと鳴り響いているだけだ。

 どれほどの時が重ねられただろう。それは孤独と絶望、そして嫉妬の世界だった。老婆の話はうるさいハエのように、憎しみを倍加させるだけの音に過ぎない。老婆の顔に唾を吐き掛けたいと思うのだが、自分にはその力もない。
 しかし、突然、それは訪れたのだ。椅子のきしむ音。そして荒い呼吸。何が起ころうとしているのか耳に神経を集中させた。
「お父さん。ご免」
ポツリと男の声が響いた。この時の衝撃を何と表現したらいいのだろう。動かぬ体が衝撃で飛び上がったように感じられたほどだ。そして叫んでいた。
『勝、勝じゃないか、どうしていたんだ。お前に会いたかった』
涙が頬を零れ落ちたように感じた。それは錯覚に過ぎなかったのだろうが、本当にそれは流れ落ちたとしか思えなかったのだ。勝の声にじっと耳を澄ませた。
「俺はアメリカに三年間留学していたんだ。お袋は、親父のことを俺に知らせてくれなかった。知っていたら、すぐにでも帰国した。ご免。お袋のことを許してやってくれ。俺に心配させたくなかったと言っていた」
『分かった、分かった。許すよ、全て許す。お前も知っているだろう。俺が誰に対しても寛容で忍耐強いことを。お前はそんな俺に育てられたんだ。そんなこと、お前が一番よく知っているじゃないか』
またしても涙が頬をつたわるのを感じた。
「親父、堪えて生きてくれ。親父が生きていてくれるだけで、俺は力が湧いてくる。そうだ、交換に、俺が親父の力になってやる。俺の人生を話して聞かせてやるよ。毎週来るから、約束する。そうだ、今日は、今までの話をするよ。俺は三日前までアメリカに留学していたんだ。」
勝は一時間ほど話して帰っていった。熱い思いが波のように後から後から打ち寄せてくる。感動の波が、勝の語り口とともに甦ってくる。楽しそうな暮らし。刺激を求める若者の情熱。懐かしさがこみあげてくる。確かに、自分にもそんな時代があった。
『勝、生きろ。そして俺に聞かせろ。お前と一緒に生きていこう。老婆よ、お前さんも、勝と会って話してくれ。勝はきっと、お前さんの心を癒してくれるはずだ』

 幸せの日々が続いた。毎週日曜日が待ちどおしかった。勝は、授業のこと、先生のこと、友人達やクラブの仲間の話、ありとあらゆることを語って聞かせてくれた。小一時間ほどで帰ってゆくが、まさに至福の時であった。
 勝が帰った後も、中条は想像の世界で遊んだ。息子の視線で世界を見る。そのエピソードを思い出し、個性的な友人達の顔を思い浮かべる。くっきりとその顔が見えてくる。まるで写真を見せられたかのように。
 勝が、心ときめかせ電車で出会う女子高生を見詰める。その視線の先にあるのは、中条が昔、電車で見初めた女学生だ。脳裏にその時の情景が浮かび上がる。初めは輪郭があやふやであったが、意識を集中させると、細部まで映像を作り上げることが出来た。
 女学生の名は山下るり子。清新女学院3年。中条と同じ年だ。セイラー服姿が楚々として、お嬢様を絵に描いたような女性だ。話しかける勇気はなく、ラブレターを何度も書き直したが結局捨てるはめになった。
 映像が変わる。中条がそのるり子と手をつなぎ、新宿の雑踏を歩いている。そうだ、大学一年の時、偶然山の手線で出会って話しかけたのだ。彼女も高校時代、中条を意識していたと言う。道すがら、厭な男と出くわした。その男の下卑た顔が大写しになる。そして男が言葉を発した。
「中条、いい女連れてるじゃねえか。俺にも一発やらせろよ」
俺はかっとなって言ったものだ。
「阿刀田先輩、先輩だからといって、それは言いすぎじゃありませんか。言っていいことと、悪いことの区別もつかないんですか」
「おい、おい、そうかっかするな。冗談だ、冗談だよ。それに俺はもう大学は辞めたんだ。先輩、先輩って言うな。俺は今、文学座の研修生だ。あの世界に入ったら、その程度の女なんて掃いて捨てるほどいる」
この言葉を聞いて、俺は思わず殴りかかった。結果は悲惨なものだったが、その行為そのものに意味があった。るり子にとっても、結局別れることになったとはいえ、あの時のことは忘れられない思い出になったはずだ。
 るり子と別れることになったのは、洋子との出会いが原因だった。「凄い新人が見つかったんだ」俺がそう言った時、不安そうに見上げるるり子の視線に出会った。俺はるり子に言った。「そんな心配するな。お前を裏切ったりしない」
 しかし俺は洋子に心を奪われていった。彼女の面影が脳裏に刻まれて、片時も離れなかった。そんな様子を心配そうに見詰めるるり子。るり子は次第に身を引いていった。まるでそうすることが自分の清廉さの証だとでも言うように、つつましく視界から消えていっ
た。心優しい女だった。
 数年して、阿刀田先輩から家に電話があった。その卑屈な声が甦る。
「あの時は悪かったな、本当に謝る。あの頃の俺は心が荒んでいて、しかも精一杯悪ぶっていた。自分でも恥ずかしいよ。でも、そんな突っ張ることが出来たのも、若者の特権みたいなものだ」
俺は努めて冷淡に答えた。
「でも、脳震盪で気を失った僕を置き去りにしたのは納得できませんね。打ち所が悪くて死んでいたかもしれないじゃないですか」
「あの頃は、喧嘩に明け暮れていた。だから相手がどの程度のダメージかは手に取るようにわかったんだ。だいいち、あの時は、かなり手加減して殴ったんだ。おいおい、もういい加減許してくれよ。さっきも謝ったじゃないか」
「ところで、何年も前の事なのに、こうして先輩がわざわざ謝りの電話を掛けてきたってことは、他に用事があるんでしょう」
かなり皮肉っぽく言ったが、相手はそれを理解できるほどの感性など持ち合わせてはいない。
「実は、ちょっと、言いにくいんだが、お金を拝借したい。二十万、いや、十万でいい。必ず返す。必ず返すから頼む。後生だ。頼まれてくれ」
最初から分かっていた。阿刀田先輩は、たとえ自分が悪いと思ったとしても謝るような人ではない。しかし何かの都合が生じ、その必要があると思えば、いくらでも頭を下げられる、そんな人なのだ。
 ふわっと、別の女の顔が浮かんだ。大手自動車メーカーに勤めて2年目のことだ。同じ課に配属された新人の片桐舞だ。舞とは2年ほど続いた。若い肉体の魅力に抗することは至難の業だった。待ち合わせて、その姿を見ただけで勃起したものだ。
 舞の眼差しが、パソコンに向かう中条に注がれる。いつもの店で待つという合図だ。中条は窓の外に視線を向け、OKの合図を送る。舞との浮気は地雷源を勘だけで歩いていくようなものだった。洋子に気付かれぬよう細心の注意を払った。
 いつもの喫茶店で、舞が重い口を開いた。
「貴方の子供が欲しいの。決して離婚を迫ったり、生まれた後で認知して欲しいなんて言ったりしない。誓ってもいい。ただ、あなたの赤ちゃんを産みたいだけなの」
俺はあの時、何と言ったのだろう。どうしても思い出せない。青い顔して呆然としていただけかもしれない。でも洋子の顔が浮かんだのは確かだ。結局、妊娠したというのは舞の早とちりだったけど、あの時は本当に焦った。
 しかし、思い返してみれば、舞は可愛い女だった。後先も考えず、浮気で出来た子供を生みたいと言ったのだ。中条は、そういう女性もいるということに感動した。利己的な人間ばかり見てきた中条にとっては新鮮な驚きだった。
 次々と思い出がリアルな映像となって額の前あたりに浮かぶ。懐かしい顔、情景、そして季節の移り変わり、全てが生き生きとして中条の眼前に展開する。まるで、視覚があるのかと錯覚するほどそれはリアルだった。
 これは新たなる世界の創造だった。あの、悪夢の発作以来、何十年と見てきた目映い世界が闇に閉ざされ、暗黒の世界で生きるしかなかった。しかし、勝の言葉が強烈な刺激となって暗黒の闇を取り払ってくれたのだ。世界を創造してくれたのだ。
 新たな世界の中で、中条は想像し、夢想する。ふと、あれは夢ではなく、この想像の世界での出来事だったのかと思ったりする。あの若き日の自分に出会ったことだ。その遠い記憶を呼び起こそうとするのだが、切れ切れの情景しか浮かんでこない。
 何はともあれ、新たな世界が開けたのだから、そんなあやふやな記憶など、どうでもよいことかもしれない。この世界に居る限り、中条は自由を満喫し、失われた青春を謳歌することができた。それを可能たらしめているのは、勝が常に新たな息吹を吹き込んでくれるからだ。
 半年ほど前、勝が打ち明けた。演劇の道に進みたいと言う。文学座の研修生の試験を受けるか、大学を受験するか悩んでいたのだ。中条は話せないもどかしさはあるものの、勝の気持ちが手に取るように分かった。蛙の子は蛙だ。中条と同じ感性を持っている。
 中条は高校時代その両方を、大学と演劇を求めて進学の道を選んだ。大学で法律を勉強し、演劇部に在籍した。もちろん、勝は中条よりよっぽどしっかりしており、二股をかけるつもりなどない。そう、演劇の道に進みたいのだ。中条は心から声援を送った。
 勿論、勝に不満がないわけではない。それは勝が決して洋子のことに触れようとしないことだ。もしかしたら既に離婚が成立しているのかもしれない。しかしそれも割り切ることにした。この小さな幸せで満足するしかないのだから。そして洋子の身勝手も許した。
しかし、そんな幸せは、突然、音もなく崩れることになる。
最近の勝の様子がおかしい。話す言葉に力がない。心ここにあらずというか、言葉が単調で抑揚がないのだ。今日も、元気のない話し声が響く。心配で心配で心が張り裂けそうになる。と、突然、勝が声をだして泣き出した。中条は驚愕し、叫んだ。
『どうしたんだ、勝。勝、何でも、お父さんに話してみろ。勝』
ガタンという音が響いた。椅子から立ち上がった様子だ。そしてしゃくりあげながら部屋を出て行く。ドアが軋み、そして勝は部屋を後にした。
『勝、勝、戻ってこい。何でも話してみろ。俺が受け止めてやる。どんなことでも、たとえ母さんのことでも、俺は受け止める。お前が、母さんのことに意識的に触れようとしなかったことを、俺は最初から気付いていた。だから、何でも話してくれ』
中条の叫びは空しく暗黒の世界に響き渡った。

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