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夢盗奴  第四章

結局、裁判で明らかになったのだが、洋子は勝の病気のことなど何も知らなかった。金のペンダントは勝が暴れた時に、阿刀田が誤って引き千切ってしまったようだ。そして、車に押し込んだ時に発作が起こった。二人は苦しむ子供をどうしたらよいか分からず、手をこまねいていただけだと言う。
 勝はその発作で事切れた。それでも二人は気を取り直し、必死の思いで中条の家に脅迫電話を入れたというのが真相である。そもそも誘拐そのものが、朝思い付き、昼行動を起すという杜撰極まりないものだった。
 洋子と阿刀田はその日のお金に事欠くような生活から抜け出そうと知恵を絞った。そして洋子が上野から聞いた話を思い出したのだ。それは中条が無類の子煩悩だという話である。二人は近くのファミリーレストランで昼食を済ませ、その足で中条の家に向かった。
 二人が犯行のため事前に準備したものは何もない。あったとすれば車だけで、その車のトランクから勝の遺体が発見された。犯行があの時刻になったのも、洋子が中条の家までの道程を覚えておらず、探し回った結果だった。
 二人は夕方近くなって、ようやく中条という表札を見つけ車を止めた。その時、子供が門から顔を出したという。洋子が道を聞く振りをして、ウインドウを開けて話しかけた。阿刀田は運転席から降りると、後ろへ回り、勝の首をつかんで後部座席に押し込んだのだ。
 計画性の欠片もない。阿刀田は、大きな体をすぼめるだけすぼめ、震える声で証言した。二人の犯行のお粗末さ、身勝手な思考と行動、中条は、阿刀田のその歪んだ口からこぼれる言葉をただ呆然と聞いていた。
 それでは何故、洋子は勝の病気を知っていたと言ったのか?知っていて薬を捨てたと言い放った。もし、あんなことさえ言わなければ、中条もあれほどの凶行には及ばなかったはずだ。知らなかったと許しを請えば、まさか殺すまで殴りはしなかった。
 中条は裁判で終始無言のまま通した。妻の雇った弁護士の前でもそれを通した。何を言っても空しく、魂が体から離れて、裁判の成り行きを上の方から見ていた。その目には、明らかに自分自身も映っていたのだ。髪の毛が真っ白に染まり、やせ衰え、まるで老人のようであった。

 一瞬、中条の脳裏に、前世の惨たらしい記憶が甦りそして消えていった。ふと、我に返ると、質屋から出てくる若き日の自分に釘付けになっている自分を意識した。次の瞬間、若者に向って足早に近付いていった。
 何かを言わなければ。彼を、いや自分を説得しなければ。再びこの世の地獄へと突き進んでしまう。前世では闇雲に自分の激情をぶっつけてしまった。もしかしたら、悲劇の結末はそれが原因ではなかったか?迷いが脳裏で渦巻いた。ではどうすればいいのだ。
 若者は中条を見て、驚いたように立ち止まった。白髪の男がじっと自分を見詰めながら近付いて来たからだ。若者の驚いた表情を見て、一瞬、中条の脳裏に前世の過酷な結末が思い浮んだ。中条の足はぱたりと止まった。若者が唐突に声を掛けてきた。
「僕に、何か?」
中条は、荒い息を整えながら言葉を選んだ。
「君は、喫茶店で、彼女と待ち合わせしているんだろう」
「ええ、お爺さんは、彼女を知っているんですか」
中条は一瞬迷ったが、思い切って前世とは別の道を選ぶことにした。
「いいや、知らない。ただ、さっき、君と彼女が喫茶店で話しているのをたまたま見たんだ。彼女は、昔別れた女房にそっくりだった。その女房には随分と酷い仕打ちをしてしまってね。もしかしたら、彼女はその人の縁者じゃないかと思ったんだ。さしつかえなければ、彼女の名前を教えてもらえないか?」
「樋口洋子です」
中条は首を傾げ、ふーんと唸っただけだ。若者はすぐにでも立ち去りたい素振りで中条を見ている。中条は若い自分に一言だけ言葉をかけた。
「彼女を大事にしなさい」
一瞬怪訝な表情をしたが、解放される安堵感の方が勝ったのだろう、笑顔を浮かべて若者は通りに向って歩き出した。中条はその後姿をじっと見詰めた。
前生では、自分であるあの老人の言葉に洋子のイメージが大きく傷付けられた。その傷つけられたイメージは大きく膨らむことはなかったが、人生のどの局面においても脳裏にふわっと浮かんできた。
 それがために洋子と別れる道筋を自ら作っていってしまったのだ。洋子とは結ばれるべきだった。そうすれば、あんな悲劇を招くことはなかった。勝という愛する者を失い、自暴自棄に陥って人生を狂わせた。前世ではその憎しみのあまり洋子を殺してしまった。
 考えてみれば、洋子の自殺未遂も、中条を失うという恐れに端を発していたのかもしれない。人は誰しも愛する人を失えば自暴自棄に陥る。洋子は中条を心から愛していた。だから自殺を試みたのだ。そして、相手を憎む気持ちを極端に増幅させたことが道を大きく誤らせる結果を招いた。
 まして、前世では12年ぶりの再会で、洋子が最初に言った言葉が中条を困惑させた。「この嘘吐き。やっぱりあの女と結婚したんじゃない」
洋子はずっと中条を憎み、そして愛していたのだ。やはり洋子を許すべきだ。中条は先ほど過去の自分に投げかけた言葉を反芻した。
「彼女を大事にしなさい」
 その言葉は中条の胸に心地よく響いた。そうだ、これで良かったのだ。中条は目を閉じ勝が再び生まれてくることを願った。中条の分身である勝が、今度は洋子を介してこの世に生をうける。これも一つの道かもしれない。そう思った。

 意識が遠のいた。地面がぐるりと回り、空も回った。砂利が頬を傷つける。確かアスファルトで舗装されていたはずだ。薄目を開けて地面を見ると、砂利道がすっとアスファルトに変わった。大通りから人が歩みよってくる。その足取りが速くなった。
 しばらく気を失っていたらしい。体が浮いたような感覚がして目覚めた。目の前に白衣を着、白いヘルメットを被った男の顔があった。何かを話しかけている様子だが、声は聞こえない。
視界の周辺がじわじわと黒く染まり、終いには漆黒を塗りたくったような暗闇に変わった。

 目覚めるとそこにはやはり暗闇が広がっていた。額の真ん中あたりに意識の核があり、そこで自己を認識しているだけだ。今の自分の状態がどうなっているのか、目蓋を開こうにもその目蓋の筋肉がどこにあるのかさえ分からない。すべての感覚がないのだ。
 いや、唯一、感覚だけはある。廊下を行過ぎる人々の足音や話し声が聞こえてくる。楽しそうな笑い声、スリッパのぱたぱたという音、そこは音に溢れていた。人が入ってくる。カーテンを開ける音。そしてその人が話しかけてきた。若い女性の声だ。
「中条さん、今日の御加減はいかがですか」
何度も聞いた優しい声だ。いや、そんなはずはない。ほんの少し前、若き日の自分に出会ったばかりだ。そう、前世の失敗を省みて、若い日の自分に、洋子の悪いイメージを植えつけるのを思い留まった。今、その鮮明な記憶が残っている。
 若き日の自分に話しかけた直後、気を失った。そして病院に運ばれたのだ。だから、その看護婦の声にこれほど馴染んでいるはずはない。それとも、若き日の自分と出会ったのは夢だったのだろうか。その時、もう一度その声が聞こえた。
「さあ、体温を測りますよ」
確かに聞き覚えのある声だ。もしかしたら、救急車で運ばれてから何度か目覚めて、この看護婦の声を聞いているのかもしれない。そのことを思い出そうと神経を集中すると、激しい頭痛に襲われた。そして朦朧としてきた。
 いつの間に寝てしまったのだろう。物音に気付いて目を覚ますと、人の動き回る気配を感じた。そして先ほどの看護婦のことを思い出した。あの女性がまだ部屋にいるのか?鼻
歌が聞こえる。清んだ優しそうな声だ。その声が話しかけてきた。
「中条さん、寝巻きを替えて置きましたからね。また明日来ますから」
この言葉を聴いて微かに記憶が甦った。彼女は「また明日来ますからね」と言い残して部屋を去る。それは幾度も繰り返されているような気がする。記憶の糸を必死で手繰り寄せた。そして漸く一つの感情に思い当たった。
 それは、その声を聞いた時の喜びの感情だった。その声を聞きたくて、毎日毎日心待ちにしていた。その声が唯一の心の支えだった。そう思った瞬間、全ての記憶が甦った。俺はここで気の遠くなるような時を過ごしてきている。やはり、若き日の自分に会ったのは夢だったのだ。
 そうだ、俺は植物人間状態になってしまったのだ。今から三年前、二度目の脳卒中が引き金だった。心がゆっくりと落ち着いてゆくと、目覚めるたびに味わう不安と動揺が胸を締め付ける。そして、今度は絶望という奈落へ落ちてゆく。

 再び目覚め、虚ろな意識に鮮明な記憶が蘇る。そして思い当たった。不安と動揺、そして絶望へと繰り返される毎日から逃れたい、もう一度やり直したい、という儚い思いが、あんな夢を見させたのだ。何ということだ、絶望という奈落の底にまたしても絶望が!
 最初の発作に襲われたのは寒い冬の朝だった。会社に遅れそうになって駅まで走って電車に飛び乗った。そして発作に襲われた。目覚めると目の前に不安そうに自分を見つめる洋子の顔があった。一瞬、その顔に歓喜の表情が広がった。
「あなた、あなた。目覚めたのね、ねえ、私が分かる、洋子よ」
「ああ、大丈夫だ」
「よかった。電車に乗ってすぐに発作が起きたから、駅前の病院に担ぎ込まれたの。だから大事に至らなかったみたい。駅前に病院があったのだから本当に不幸中の幸いだったわ」
「俺の体はどうなっているんだ。下半身の感覚がない」
「ええ、正直に言うわ。麻痺が残っているの。でも、リハビリすれば何とかなるって、先生が仰ったわ。ねえ、頑張りましょう。私も協力する。出来るだけ頑張るのよ。会社のことは忘れて」
地獄のリハビリがその時から始まった。

 何度も投げ出しそうになった。何度も喧嘩して罵り合った。何度も二人で泣いた。勝はそんな二人をおろおろしながら見ていた。二人は勝が嫉妬するほど仲睦まじく、争ったことなどなかった。勝にとって、こんな二人を見るのは初めてだったからだ。
 少しづつだが右足が動くようになった。続いて左足が引きずるようにだが、何とかそれに倣った。それを見て、洋子の目に涙が滲んだ。中条はようやく洋子の胸奥を覗いた気がして、自らの弱さを克服しようと決意を新たにしたものだ。
 そして、それまで心の奥底で燻り続けていた洋子に対する疑惑など吹き飛んでしまった。洋子に対する疑惑は全く馬鹿げた妄想だったのだ。洋子は中条を心から愛している。中条
を必要としている。そのことが分かった。
 その妄想の発端は、最初の発作よりだいぶ前に遡る。演劇部の先輩である阿刀田から夫婦宛にパーティの招待状が届いた。テレビで活躍する阿刀田は遠い世界の人間だと思っていただけに、二人は飛び上がらんばかりに喜んだ。
 帝国ホテルで行われたパーティにはテレビでお馴染みの文化人の顔もちらほら見られた。二人は遠くから主役である阿刀田を眺めていた。そんな二人に後ろから声がかかった。
「おい、相変わらず見せ付けるじゃないか。そろそろ倦怠期に入ってもおかしくない時期
だ。まして子供までいるんだろう」
振り返ると、桜庭と上野がグラス片手に微笑んでいた。演劇部の悪友達だ。洋子が嬉しそうに応じる。
「うわー、懐かしいー。二人とも何年ぶり。桜庭ちゃんに昭ちゃん。昔と少しも変わってないわ。ねえねえ、私はどう?変わった」
昭ちゃんこと上野がすぐさま答えた。
「洋子は変わったよ。美少女から妖艶な美人妻にね。本当に翔がうらやましい。こんな美人と毎日暮らしていられるなんて」
「でも、毎日だと飽きるんだ。古女房でよければ、…」
洋子が睨んでいる。中条は笑いながら続けた。
「冗談、冗談。毎日が新鮮で、朝起きる度にときめいている」
「なによ、今更。許さないから、家でお仕置きよ」
みな、どっと笑った。ひとしきり昔話で盛り上がった。そんななか、桜庭がにやにやしながら言った。
「しかし、阿刀田先輩がこれほど出世するとは思いもしなかった。でかい図体して、ただただ舞台の上を右往左往していただけなのに、今じゃどうだ、映画、舞台、テレビと乗りに乗ってる。人生、どこで、どう変わるか分かったもんじゃない。でも、奴も思い切ったもんだ。しかし、そこまでやるかね。いくら出世と引き換えだとしてもだ」
上野もにやにやしながら頷き、グラスのシャンペンを一気に飲み干した。中条は桜庭の言っている意味が分からず聞いた。
「おいおい、ふたりとも何にやにやしているんだ。それに、思い切ったというけど、阿刀田先輩は何をどう思い切ったんだ?。俺達にも分かるように教えてくれよ」
「業界じゃ有名な話さ。それに一部女性週刊誌にもすっぱ抜かれたこともある。阿刀田先輩は、その週刊誌の記者にそうとうの金を積んで黙らせたって話だ」
桜庭は広告代理店の営業マンだから、この業界の噂にも長じている。顎をしゃくって彼方の一団を示し、小声で言った。
「あそこにいる白髪の老人を知っているか。取り巻き連中に持ち上げられて、ふんぞり返っている脂ぎった老人がいるだろう。あいつだよ」
「いや、知らん」
「わが大学の先輩で、演劇評論家の飯田久だ。そして、あの飯田先生のお気に入りはみんなホモ達だってことさ」
「つまり阿刀田先輩も、ってことか?」
中条は思わず絶句したのだが、洋子の反応は意外だった。
「信じられない。私、阿刀田先輩に憧れていたのに。でも、芸術家ってみんなその気があるみたいよ。だってミケランジェロやダビンチだってそうだったって言うじゃない。でも、それって本当の話なの?」
「ああ、本当のことだ。この業界じゃ有名な話よ。おっと、おい、おい、こっちに来るよ。奴がこっちに近づいてくるって」
四人は引きつった顔に笑顔を載せて、主役の登場を迎えた。阿刀田はその長身をゆらゆらさせて歩いてくる。その顔は得意満面で、ゆとりの笑みをうかべ四人の前に足をとめた。
「おい、おい、懐かしい顔ぶれだ。洋子ちゃん、幸せになれて良かったな。中条君は君の憧れの的だった。おい、おい、中条、新宿で偶然出会ったのは何年前だ。確か、子供が生まれたって言っていたよな」
中条が、それに答える前に、洋子が答えた。
「息子はもう小学五年になります。ところで阿刀田先輩のことは、いつもテレビで拝見しております。主人と違い阿刀田先輩は初心を貫徹なさって、演劇の道を邁進なさった。本当に立派で…」
中条が、横目で窺うと、洋子の顔が上気しているのが分かった。中条が話しを引き取った。
「おい、おい、俺が日和ったのは、お前との結婚のこともあったんだ。お前だって、ちゃんとした所に勤めてくれって言ってたじゃないか。忘れたのか?」
「忘れてなんかいないわ。でも、貴方に才能があるとは思えなかったから、貴方のためにそう言ってあげたの。一生、陽の目を見なかったら、貴方が可哀想じゃない。当時の阿刀田先輩には、やはり光るものがあったのよ」
阿刀田が笑いながら答えた。
「おいおい、そんなに俺を持ち上げるなよ。たまたま、たまたまなんだ。おれより才能のある奴が、埋もれて消えてゆくのを何度も見ている。それはそうと、中条夫妻は、美男美女の取り合わせだ、きっと可愛いお子さんだろうな」
洋子が答えようとするのを、桜庭が強引に割って入った。
「阿刀田先生。ご招待頂きまして、本当に感謝しております。今度、うちの企画にも、是非乗って頂きたいと思っておりますて、…。あつかましいとは思いましたが、企画書を先生のプロダクションの方に提出しております」
「おい、おい、先輩後輩の間柄で先生はないだろう。それはそうと、その企画書には目を通した。今度、僕の意見も聞いてもらおうと思っている」
「ありがとうございます」
桜庭は90度以上、腰を曲げてお辞儀した。

 その日以来、洋子は阿刀田の熱烈なファンになり、舞台は必ず見に行くようになった。最初のうちは夫婦連れ立って見に行っていたのだが、中条は次第に足が遠のいた。そうそう舞台を見に行くほど暇ではなかったからだ。
 最初のうちはそれほど気にしなかった。いくら物好きな阿刀田でも、中年の子持ち女に手を出すとも思えなかったし、ホモの噂もあったからだ。しかし、洋子の外出の頻度が増し、次第に帰りが遅くなると、不安が頭をもたげ始めた。
 まして、勝の中学受験にあれほど熱中していたのが、嘘のようにその熱が冷め、自ら着飾ることに執念を燃やしているように思えた。とはいえ、残業も多く妻の後を付いて回る
わけにもいかず、中条は次第に疑惑と焦燥に苛まれていた。
 しかし、最初の発作、そしてそれに続くリハビリを通して、洋子の献身と誠意には心を打たれた。洋子の本質、その優しさに触れたように思った。不幸な出来事が、逆に中条の疑惑に終止符を打つという結果をもたらしたのだ。洋子に対する愛おしさが膨れ上がった。

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