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夢盗奴  第三章

 夫婦は、相変わらず二人目に恵まれなかった。しかも、勝が小学校3年になったばかりの頃、狭心症の発作に襲われ、入院すると言う事態に見舞われた。るり子はおろおろするばかりで、その精神的な脆弱さは中条を苛立たせた。
 勝は半年後に退院出来たのだが心臓に爆弾を抱えていることに変わりはなく、ニトロの錠剤を肌身離さず持たせて、万が一の事態に備えさせた。か細い首に太めの金の鎖、そのなんとも言えぬアンバランスさが痛々しく、中条は思わず勝を抱きしめたものだ。
 絵に描いたような幸せな家族に影を射した小さな不幸が、最悪の結末への序曲になろうとは夫婦ともども考えもしなかった。ただ、るり子は一人息子の不幸に、時に涙を流し、時に嘆息し、中条を更に落ち込ませるばかりで、家は暗く沈みがちだった。
 そんな或る日曜日、中条は夕食前の犬の散歩に出かけた。発病前は、勝と二人で出かけたものだが、今は一人だ。門を出ると右に行くか左に行くか迷ったが、すぐに左の道を選んだ。勝が友達から貰った柴犬は大谷石の塀に沿ってぐいぐいと中条を引っ張ってゆく。
このまま行くと、最後にあの忌々しい住宅地に出てしまう。かつては中条家の裏庭で、そこにはブナ、楓、栗等の樹が雑然と植えられていて、子供の頃からの思いでの場所だが、今では6軒の住宅地になっている。中条は、左に折れススキの繁る川沿いの道を選んだ。
 しばらく歩いて、悲鳴をきいたような気がした。散歩の途中だったが、中条はすぐさま引き返した。家に駆け付け、るり子を呼んだが返事はない。遠くで勝を呼ぶ声が聞こえ、それが徐々に近付いてくる。るり子は勝を探して家の近所を必死で駆けまわっていたのだ。
 曲がり角からるり子が飛び出して来た。中条は駆けよって取り乱するり子を抱きしめた。るり子が見覚えのあるペンダントヘッドを掌に載せて涙声で言う。
「これ見て。このペンダントを見て、門の前に落ちていたの。どういうこと、ねえ、これってどうゆうことなの」
中条はペンダントを取り上げ、じっと見入った。ペンダントの蓋を開けると、ニトロの錠剤が二つとも残っている。見ると金の鎖の留め金がなくなっていた。
「どこに落ちていた?」
「この辺よ。確かここだと思う」
るり子の指差す場所を、中条は這いつくばって探した。案の定、その留め金がそこに落ちている。それを拾い上げ重い口を開いた。
「引っ張ったんだ。引っ張って留め金が飛んだ」 
「誰が引っ張ったの。勝が自分で引っ張ったって言うの」
「分からん」
「ねえ、ちょっと、ちょっと、ねえ、聞いて、家で電話が鳴っているわ。厭な予感がする」
そう言うと、るり子は駆け出していた。中条も、まさか警察から?と思ったが、いくらなんでも早すぎる。すぐさま不安を振り払うと、るり子の後を追った。
 居間に入ると、るり子の絞り出すような声が響いた。
「お願い、勝を返して。お願い、何でもするから。そんなこと、そんな、警察なんかに電話なんてしないわ。言われなくたって分かっています。お願い、勝が生きて帰れるなら、何でもします」
るり子の顔はくちゃくちゃで涙も洟も一緒になって口元を濡らしていた。
 中条は、るり子から受話器を奪うと耳に当てた。男の潰れたような声が響く。
「奥さんよ、分かってりゃあいい。万が一にも警察に届ければ、間違いなく息子の命はない」
中条が受話器に向かって叫んだいた。
「おい、聞いてくれ。勝は心臓が悪いんだ。もし発作に襲われて、ニトロがなければ死んでしまう。金は何とかする。いくら欲しいんだ」
「おや、旦那さんか。その方が話しは早い。いいかよく聞け、一億円を用意するんだ。びた一文まけない。きっちりと揃えてもらう」
「今日は日曜だ。ましてそんな金などない。現金はせいぜい4千万、証券はあるが現金化には時間がかかる。家を売ればなんとかなるが、すぐにというわけにはいかない」
「現金が4千万だと、おい、ふざけたことを言うな。近所の噂じゃあ、金庫に金が唸っているそうじゃねえか」
「内実は違う。親父の残してくれた財産はあらかたお袋が使ってしまった。俺に残されたのはこの土地と僅かばかりの現金だ。だから一億作るとなると土地を売るしかない。」
「その辺の土地は一坪幾らくらいするんだ?」
「100万がいいところだ」
「ヒュー、6億か。すげえな。ではこうしようじゃねえか。いいか、よく聞け。坪50万で大手の不動産会社に打診しろ。明日、朝、一番で電話するんだ、いいな。そして内金として一億早急に用意してもらえ。明日、午後7時に電話する。くれぐれも言っておくぞ。仲間がお前の家を見張っている。変な動きがあれば、子供の命はない。これは脅しじゃない。分かったな」
「待ってくれ、せめてニトロを子供に持たせたい。どうすればいい」
「子供は大事に扱っている。安心しろ」
そこで電話は切れた。
「どうするの?」 
るり子の声は震えていた。中条は、それには答えず、すぐさま駅前の不動産屋に電話を入れた。裏庭を処分して以来、そこの社長とは親しい。社長は坪50万という言い値に飛び付いた。明日、午後3時までにありったけの現金を用意することも承諾してくれた。
 社長は売り急ぐ中条の様子に不審を抱いたようだが、チャンスをつかんだ興奮の方が勝った。るり子に明日一番で4千万円を銀行からおろすよう指示し、中条は出かける用意を整えた。1億には足りないが、万が一の時の用意だ。実は犯人の目星はついていた。

 犯人の言った「6億」という金額が鍵なのだ。100万で6億。犯人は土地が600坪だと思っている。母親が死んで相続税を払うために止む無く300坪を売ったのが28歳の時。つまり、犯人の情報は中条が28歳以前のままだ。つまりそれ以前に交友があり、その後途絶えた奴が犯人ということになる。
 そして、それは洋子以外にありえなかった。家に招待し裏庭を散策した時、洋子が聞いた。「随分広い土地ね。これって何坪あるの」と。中条は止む無く答えた。小さな頃から自慢していると思われるのが厭で、殆ど人に喋ったことなどない。その例外が洋子なのだ。
 その洋子を手繰り寄せるには、上野に会う必要がある。何故なら、同窓会の折り、桜庭は上野と洋子の関係を怪しいと匂わせた。桜庭はその方面の勘が鋭い。学生時代、洋子を巡って一時険悪になったことがあったが、その時そう感じたのだ。

 上野はすぐにつかまった。六本木の店ではなく新宿のバーで待ち合わせた。上野は20分ほど遅れてきたが、席に着くなり聞いた。
「でも、洋子が勝ちゃん誘拐に関係しているっていうのは本当なんですか。なにかの間違いじゃありません」
「間違いない。洋子は表には出ていないが、絶対に関わっている。洋子が何処にいるか知りたい」
「僕に彼女の居場所を聞くなんてお門違いですよ。僕が知っているなんて、何故思ったんですか?」
中条はいきなり胸倉をつかんだ。
「勝の命がかかっている。貴様の嘘や言訳に付き合っている暇はない。お前が洋子に惚れていたのは俺が一番よく知っている。自分の店に来た洋子をお前が見逃すはずはない」
上野の目はすぐに真っ赤に染まった。
「分かりましたよ、苦しいから手を離してください。先輩、お願いします」
と震える声で答えた。
上野が話し始めた。確かに阿刀田主催のパーティのあった頃、上野は洋子と付き合っていた。熱をあげ、女房には内緒で赤羽にマンションを買い与えていたのだ。しかし、次第に、上野は自分以外に男がいるのではないかと洋子を疑いはじめた。
そして、ある時、思い切ってマンションを見張ったのだが、上野はそのエントランスから出てくる男を見て自分の目を疑った。それが阿刀田だったと言うのである。
「阿刀田はまだ演劇で食っているのか?」
「いいえ、奴はあのパーティの直後、公演を開けず劇団を解散して、姿を消していましたから、本当にびっくりしました。まさか阿刀田先輩が洋子と出来ていたなんて」
「それでどうした」
「洋子は諦めました。マンションの借金は残っていましたけど、それは引き受けることにして、手を切ったんです。洋子は、それからも僕の友人やらに粉をかけて歩いたらしいけど、誰も相手にしません。だってそうでしょう。当時、美人とはいえ、既に36を過ぎていましたから」
「まだ、そのマンションにいるのか」
「多分いると思います」
「よし、案内しろ」
 怖がる上野を無理やり赤羽まで引きずって行った。途中の商店街で警棒を買い込んだ。上野が恐れる阿刀田の粗暴さは演劇部の誰もが知っていた。そんな男が何故演劇なのか、皆、首を傾げたものだ。そんな男に素手で立ち向かうわけにはゆかない。
 マンションの前までくると、上野はしゃがみ込んで抵抗した。ここで帰らせてくれとしきりに懇願する。しかたなく解放することにした。
 マンションを見上げると、上野の示した部屋は電気が灯っている。もし、中条の勘が正しければ、勝はそこに居る。もしいなければ、阿刀田のねぐらということだが、そのねぐらは、洋子が知っている。警棒で脅せばすぐにでも口を割るはずだ。
 エレベータで8階まで上がった。806号室のドアの前まで音も立てず近付いた。ドアに耳を当てるが、テレビのニュース番組の声が微かに聞こえるだけだ。ノブを回しドアを少し開けた。アナウンサーの声がはっきりと聞こえる。
 玄関には男物の革靴が置いてある。廊下の先は居間なのであろう、ドアの隙間から明かりが漏れている。後ろ手にドアを静かに閉めたつもりが、バタンと大きな音を立ててしまった。廊下の先のガラス戸が開いて男が顔を覗かせた。阿刀田である。
「誰だ、そこにいるのは」
見つかってしまったからには、覚悟するしかない。中条は意外に冷静な自分に驚いた。
「先輩、お忘れですか、後輩の中条です」
居間の空気が大きく揺れ、阿刀田の顔が歪んだ。
「上がらせてもらいます」
後ろで女の囁くような声がする。すると阿刀田が叫んだ。
「おい、勝手にあがるな。いま取り込んでいるんだ。用事があるなら外で聞こう」
こう言うと、ガラス戸を開けて出てきた。玄関まで来ると仁王立ちで中条を睨み付けた。190近い大男だ。無理やり作った険しい顔。しかし、そこには疚しさと恐れが貼り付いている。中条は笑みを浮かべながら口を開いた。
「いいマンションじゃないですか。ちょっと中を見せてください。」
上がり込もうとすると恐ろしい力で突き飛ばされ、ドアに頭をぶつけた。怒りが炸裂した。体勢を立て直し、右手に隠し持った警棒を振り上げ、阿刀田の脳天に思いきり振り下ろした。阿刀田は声もなく、その場に崩れるように倒れた。靴をはいたままずかずかと廊下を歩いてガラス戸に向う。
 居間の空気が激しく動いた。玄関での異常を察知したのだろう、中で洋子が蠢いているのが手に取るように分かる。中条は急いでドアを開け、中に踏み込んだ。洋子は背中を見せ、サイドボードの抽斗を探っている。
 洋子が振りかえった。目は血走り、唇をわなわなと震わせている。
「この嘘吐き。やっぱりあの女と結婚したんじゃない」
この言葉に、中条は一瞬十二年まえにタイムスリップしたような感覚に襲われ、生真面目に言い訳の言葉を捜した。しかし、すぐに勝のことを思いだし、憎しみを顕に睨みつけると、そこには醜く年を重ねた女が、中条以上に憎しみを剥き出しにして見上げていた。
 艶やかだった肌はかさかさに乾いて、額に寄せた皺の深さを際立たせ、無理なダイエットでもしたのだろうか、たるんだ皮膚が首に二重の線をえがいている。一瞬にして現実に引き戻され、怒りが爆発した。
「勝はどこだ」
自分でもびっくりするような怒声が響き渡る。洋子はそれにもたじろがず、ふてぶてしく笑った。さっと振り向くと、その右手には拳銃が握られている。
「私達の一億円はどこなのよ。手ぶらで来るなんて、どこまで、あんたは私をコケにする気なの」
その顔には憎しみと卑しさがあるだけで、疚しさの欠片もない。
「やはり、貴様等だったんだ。勝はどうした。何処にいるんだ」
「死んだわよ。苦しがって死んだわよ」
この冷酷な言葉が中条の心を襲った。心が絶叫し、絶望が目の前から光りを奪った。気がつくと床に頬をつけて倒れていた。一瞬にして全ての筋力を失ったのだ。視線が洋子の勝ち誇った顔を捉えた。涙が止めど無く流れる。
「何故なんだ。何故、あんないたいけない子供を殺す必要があったんだ」
洋子の、あくまでも冷静な声が響く。
「殺してはいないわ。勝手に死んだのよ」
「勝は薬を持っていた。お前じゃないのか、勝を誘拐したとき、首のペンダントを引き千切ったのは、お前じゃないのか」
中条は洋子の目をじっと見入った。しかし、洋子の目に邪な激情が走ったことには気付かない。一方、洋子の脳裏には若き日の無念の思いが彷彿と蘇った。自殺するほど悩んだのだ。憎悪の刃が鎌首をもたげた。
「そのペンダントの中に薬が入っていた。発作が起こった時、それを飲ませれば勝は助かった。それともあのペンダントに薬が入っていることを知っていたのか、知っていて引きちぎったのか?」
洋子は、憎しみに歪んだ顔を更に歪ませ、肩を大きく上下させている。洋子の邪な激情が思索を重ねている。相手を最も効果的に傷つける言葉を探していたのだ。その顔を見ているうちに、中条の頭に恐ろしい考えが浮かんだ。もしかしたら、
「お前は知っていたんじゃないか。勝の病気のことも、薬のことも知っていたんじゃないのか」
沈黙があった。洋子はじっと中条を見詰めている。一瞬その顔が奇妙に歪んだ。洋子の表情を読み取ろうとしている中条には笑ったようにしか見えなかった。実は洋子はようやく相手をより深く傷つける言葉を探り当てたのだ。
ゆっくりと薄い唇が開かれた。
「ええ、知っていたわ。だから薬を捨てたのよ」
この瞬間、中条は、すっと血の気が引くのを感じた。洋子は最初から知っていて、勝の命を守る薬を捨てた。自ら手を下し殺そうとは思わないまでも、発作を起させ死を誘発させたのだ。それは中条に対する復讐に他ならない。
絶望が憎悪へと変わってゆく。
 中条はゆっくりと体を起こし、床に転がる警棒を拾い上げた。膝を立て、起きあがろうとした。洋子が叫んだ。
「じっとしているの。そのまま座りなさい。どうしても一億いるの。だから今度はあなたが人質よ。動かないで。撃てないと思ったら大間違いよ」
洋子の言葉を無視して立ちあがり、一歩踏み出した。洋子は銃口を中条の太ももに向けた。同時にカチッという金属音が響いた。弾が入っていなかったのか、或いは不発だったのか。
 中条は、恐怖に顔を歪ませた洋子を見下ろした。洋子は両手で拳銃を握り直し中条の胸に向けて引き金を引き続けた。カチッカチッという音が空しく響く。洋子の顔が恐怖で歪むのを、中条は眺めていた。
 洋子の右腕に向けて、警棒を渾身の力を込めて振り下ろした。骨の砕ける音がした。洋子は悲鳴を上げ、顔を歪ませた。なおも警棒を振り上げる中条を見て、左手で後頭部を抱えながら床に這い付くばった。
 最初の一撃で、頭にかざした左手が潰れた。それでも頭を守ろうと血だらけの手を頭にかざして蠢かせている。二発目で、その手も動かなくなった。三発目で、頭蓋骨が割れ、脳漿がこぼれた。四発、五発と数えて十五発目で警棒が飛んだ。血でぬるぬるしていたのだ。
「えへへへ」
照れたように笑いながら、警棒を拾うと、また殴りはじめた。

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