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夢盗奴  第六章

 どれほどの時間に耐えただろう。じりじりと、歯噛みしながら待った。待つことしか出来ない自分の非力は如何ともしがたく、それを呪ったところで、何の解決にもならないことは分かりきっていた。だからじっとその時間に耐えたのだ。
 そして、その時はやってきた。勝が部屋に入ってくるのが分かった。闇の彼方のドアが開かれ、そこに浮かび上がった影は、暗い予感を含み、ただそれに耐えろという前触れのように感じた。だから中条はじっと待った。勝の声を。
「父さん。ご免。今日で、お別れだ」
覚悟はしていたつもりだったが、胸が締め付けられ息ができないほどだ。
『勝、それはどういう訳だ。いったい何があったと言うんだ』
長い沈黙があった。心が張り裂けんばかりに膨張し波打った。それでもじっと待った。
「俺は、母さんを殺してしまった。自分の母親を殺してしまったんだ」
勝の涙声が響いた。衝撃が中条の体を走った。微かに光が射し始めていた薄闇の世界が再びどす黒い暗闇に戻ってゆく。その時、どこからともなく、あのうめき声が響いたのだ。
『なんということだ。前世では洋子が勝を殺し、今生では勝が洋子を殺した』
その声に驚いて、中条は見えもしないのにきょろきょろと辺りを窺った。しかし、この声の主の気配はない。勝が話し始めた。中条は不気味な声に動揺しながらも、勝の声に耳を傾けた。
「親父、信じられないことだけど、俺は親父の子供じゃなかった。俺は信じたくなかった。でもそれはどうしようもない事実なんだ」
頭が混乱していた。いったいお前は何を言っているんだ。お前は俺の子供だ。それは間違いのない事実だ。そんなことあり得ない。
「違うんだ、親父。ふと疑問を抱いてDNA検査をした。そして真実を知った。だから、今日、問い詰めた。そしたらお袋はこう言った。『勝は、あの有名な阿刀田さんの子供なの、だから演劇の世界での貴方の将来は約束されているのよ』って」
中条は叫んだ。
『馬鹿なことを、なんて馬鹿なことを』
「そうだ、まったく馬鹿げている。俺はお袋に言ってやった。俺はそんな薄汚いコネクションを利用して世にでようなんて思ってもいない、と。お袋は俺を見くびっていた。だから俺はあんたとは違うと言ってやったんだ」
『たとえ、洋子がそんなことを言ったとしても、どんなに洋子が卑劣な人間であったとしても、殺すなんて。お前の人生、これからどうなる。そのことを考えたのか』
「勿論考えたさ。でも、俺は親父が大好きだった。だから、だから、思わず、首を絞めた。お袋は、戸惑いと驚愕の目で俺を見た。俺は親父の顔を思い浮かべた。だから、だからこそ、指先に力を込め続けたんだ」
勝のむせび泣く声が響く。狂おしいほどの無念さが胸を掻きむし毟り、煮えたぎるような憎悪が心に渦巻いた。もはや、互いに意思疎通している不自然さなど気にならない。
『卑劣な女、洋子!勝を殺しておきながら、少しも反省しようとしない女』
あのどこからともなく聞こえて来る声が再び響き渡る。中条の心が何故かこの声に反応し、打ち震えている。前世の記憶がじわじわと脳裏に浮かび上がり、勝が洋子と阿刀田に殺された時の悲しみが甦ったのだ。心がその言葉に共鳴する。そして、
『今度は、勝に有名人の血を引いていると自慢する女。息子は苦しみながらも、俺の愛情に応えようとした。だからあの女に怒りの鉄槌を振り下ろしたのだ』
またしてもあの声が響く。この言葉は、まさに中条の今の悲しみと怒り炸裂させるに十分すぎるほどの起爆剤となって、中条の脳に働きかけた。中条の声が響き渡った。
『思い知ったか、洋子、お前は殺されて当たり前だったんだ。勝は、こんなにも苦しんだ。
その代償としての死は、お前自身が引き寄せたんだ。全てお前のせいなんだ』
中条のその怒鳴り声はまさしく、何処からともなく聞こえていたあの声そのものだった。前世の恨みを含むこの怒気に中条は何の疑念も抱かない。怒り心頭に発し、ただその爆発に身を委ねているだけだ。
 こうして憤怒が頂点に達したとき、中条は、めくるめくような恍惚に満たされ、波のように打ち寄せるエクスタシーを味わっていた。背徳のエクスタシー、殺して恨みを晴らした時に上げる勝利の雄叫びだったのだ。中条は、その残滓まで味わい尽くし、ふーとため息をつく。悦楽の常として、このエクスタシーも一瞬だ。
 恍惚の時はいつも瞬時に終わってしまう。くだらないジョークで皆と馬鹿笑いした後に訪れる静寂に似て、このエクスタシーには虚しさが伴う。或いはそれもやむを得ないのかもしれない。何故なら、これは全て夢の中の出来事なのだから。

 ふと、我に返ると部屋は静寂が支配していた。急激に萎んでゆく興奮。中条は勝の気配を探った。人の気配はある。しかし、それは勝のそれではない。そうだ、勝の話はもう既に終わったのだ。
 中条は舌打ちし、薄目を開けて、その狂った婆さんの姿を見上げた。また来やがった。ふんと鼻をならし睨みつけた。老婆は椅子に腰掛けて話し始める。
「翔ちゃん。この前は、何処まで話したっけ。そうそう、先月は、翔ちゃんが洋子さんと結婚する前までだったわね。そう、洋子さんは、本当に心の優しい人だった」
『うるさい、俺の世界の邪魔をするな。死ね、糞ババア、貴様の顔など見たくない』
中条がいくらわめこうが叫ぼうが、婆さんは喋りつづける。そう、中条は最初からそれが誰なのか分かっていた。婆さんは中条の母親だった。
「翔ちゃんは、結婚式は帝国ホテルじゃなきゃ厭だって、暴れた。どんなに謝っても許してくれなかった。翔ちゃんの暴力にはなっれっこになっていたけど、あの時は死ぬかと思った。髪をつかまれ家中引きずりまわされたんだから」
『そんなことしてない。俺はそんな男じゃない』
「それに、大学の演劇部の寄付は、ほとほと参ったわ。桜庭や上野には負けたくないって、怒鳴った。お金がないと言うと土地を売れってすごんだ。思い出がいっぱいの土地を手放すのは、本当に辛かったわ。でも翔ちゃんの暴力には逆らえなかったもの」
『貴様など、知らない。お前の顔なんか見たこともない』
中条はいつもそうしてきたように怒鳴りわめき続けた。しかし、母親は容赦しなかった。
「勝が自動車事故で死んだ時は私も辛かった。翔ちゃんは、車を運転していた洋子さんを責め続けた。洋子さんが勝を殺したも同然だって。でも洋子さんは居眠り運転するほど疲れきっていた。翔ちゃんが、家にお金を入れないから、一日中働きずめだった」
『嘘だ、嘘を言うんじゃない』
「とにかく、翔ちゃんは、何でも責任を人に押し付けて、人を恨んで、糞味噌にやっつけていれば満足だった」
『クソ婆が、死ね、死んでしまえ』
「言われなくとも死んでいるわ、つい昨日のことよ。翔ちゃん。あなたと同じ世界に一歩足を踏みいれたの」
『嘘だ。嘘をつくな。俺は死んではいない。俺はここにこうして生きている。このベッドを見ろ。この体を見ろ』
「違うわ。翔ちゃん、よく見て。ベッドに寝ているのはまだ子供よ。貴方は今何歳だと思っているの?翔ちゃんが死んだのは45歳の時よ」
『俺が死んだって、嘘を言うのもいい加減にしろ。俺は、脳溢血で倒れ、そして全ての感覚を失った。しかし、意識だけははっきりとして、ここに寝ているんだ』
母親は思わず吹き出し、可笑しそうに声を上げて笑った。
「それって、洋子さんに復讐するために夜毎紡ぎ出された作り話の一つにすぎないわ。この子は良く夢を見る体質だから、今晩は二回も夢を作り出せた。でも、今回の設定は正に今の翔ちゃんとそっくり。身動き出来ないで、そこに縛り付けられている」
『止めてくれ、作り話なんかじゃない。俺はこうして生きているんだ』
「いいえ、よく見なさい。この子は翔ちゃんじゃないの。翔ちゃんは死んだのよ。舞さんと一緒に車で事故にあった。舞さんは救急車の中で、翔ちゃんはこのベッドの上で死んだの。あの世にも行かず、ここに留まっているってことは、よっぽど死にたくなかったのね」
そう言うと、母親は、ベッドの斜め上の天井に視線を向けた。その瞬間、中条の意識はベッドに横たわる少年の体からすーっと離れ、母親と面と向き合うことになった。荒い息をはきながら、母親を睨みつけている。
「そろそろ目を覚ます時よ。翔ちゃんは、この病室に来る人来る人の夢の中に入り込んで、人の夢を横取りして自分の思いを遂げてきた。物語を紡ぎ出し、洋子さんや阿刀田先輩に対する恨み辛みを何度も何度も晴らしてきた。空しいと思わないの」
『空しくなんてない。俺は勝を本当に愛していた。その責任を洋子に取らせなければ俺は浮かばれない。死んでも死に切れなかった。だから……だから……』
「確かに、翔ちゃんは、勝の葬式のとき声を上げて泣いていたわ。そして勝のことで洋子さんを責め続けた。でも、翔ちゃんが、洋子さんを責め続けたのは、何もそれが理由ではないわ。お母さんは知っているのよ」
『いったい、何を知っているというんだ。変な言いがかりはよしてくれ。俺は純粋に勝のことで洋子を憎んだだけだ』
「翔ちゃんが、残った300坪のうち200坪を売って事業を起こした時、雇った事務員が片桐舞さん。翔ちゃんが入社2年で辞めてしまった会社の部下。舞さんの洋子さんに対する嫌がらせはその時から始まっていたのよ」
『……』
「そして追い討ちをかけるように勝が亡くなった。翔ちゃんは、これを機に一気に離婚に追い込もうとした。だから洋子さんが最も傷つく言葉を吐き続けた」
『……』
「洋子さんが離婚届に判を押さなかったのは、舞さんの存在があったからよ。嫌がらせを続ける舞さんを心底恨んでいた。だから洋子さんも意地になってたみたい」
『舞とは愛し合っていた。あいつも焦っていたんだ。俺と結婚したかったんだ』
「焦ったから、あんなことまでしたの、二人して」
ぎょっとして母親を見た。まさかそこまで知っているとは思いもしなかった。中条の視線が落ち着きなく揺れ動く。
「洋子さんは、バックミラーで貴方たち二人の顔をみているの」
母親は視線を合わせようとしない息子を睨みつけた。
「洋子さんは昼の仕事の後、夜、お弁当屋さんに勤めていた。貴方たちは、夜、帰宅する洋子さんのミニバイクに後から車を追突させた。幸い洋子さんはかすり傷で済んだけど、でも、洋子さんは、その時、貴方たち二人の顔をバックミラーで見ているのよ」
じりじりとした焦りが、中条の心を追い詰めてゆく。
『あいつが、悪いんだ。なかなか離婚届に判を押さなかったあいつが悪いんだ』
それは中条にとって自明の理なのだ。あまりにも洋子は頑なになりすぎていた。
「翔ちゃんの会社はとっくの昔に破綻していた。舞さんとの生活にはお金が必要だった。
だから洋子さんに死亡保険を掛けたわけね」
まさかそこまで知っていようとは。焦りは胸を圧迫して息も出来ない。逃げ道はなくなっていた。思わず叫んでいた。
『それもこれも、お前が悪いんだ。お前は実印を隠して100坪の土地を売ろうとしなかった。お前が、意地を張らなければ、俺だって、そこまで思いつめはしなかった』
母親は優しくその言葉を受け止めた。
「はいはい、悪うございました。翔ちゃんが、そこまで思いつめていたとは気付きもしなかったわ。それより、翔ちゃん、そろそろ自分が死んだことを認めなさい」
『ああ、そうだ。俺は死んだ。あのクソ女にあの土地を残して死んだと思うと、悔しくて、悔しく死に切れなかった』
「それは違うわ。洋子さんは貴方のお葬式が済むと、家を出たの。厭な思い出ばかりのあの家から逃れたかったんだと思う。葬式は盛大にあげたわ。懐かしい顔ぶれが揃った。上野さん、桜庭さん、そうそう阿刀田さんも来てくれた。阿刀田さん覚えている?」
『忘れるわけがないだろう。あいつにどれだけ金をせびられたと思っているんだ。あいつは俺にとって疫病神だった』
「そんなことないわよ、確かに私が二度ばかり用立てたけど、ちゃんと返してもらったもの。役者では挫折したようだけど、実業家としては立派に成功された。そうそう、お葬式の時に仰っていたけど、阿刀田さんの奥さん、翔ちゃんが阿刀田さんに紹介したんですって?」
『ああ、そうだ。散々遊んで飽きたから、女に縁のない阿刀田先輩にくれてやった』
中条は悔しさで顔を歪めた。るり子と新宿でデートしていた時、阿刀田先輩と偶然出会ってしまった。るり子は阿刀田の文学座の研修生という肩書きにころっと参ってしまったのだ。二人が付き合いだしたと知った時、どれほど阿刀田を憎んだことか。
 二人を付け回し、行く先々で嫌がらせをした。ところが、あの日、二人がホテルに消えた後、るり子の名前と電話番号、そして「誰とでも寝ます」と文字を大書きした紙を塀に貼ろうとしていたその時、ホテルの入り口から二人がぬっと現れたのだ。軽蔑しきった二人の視線は、中条のプライドをずたずたにした。
「翔ちゃん、ようやく思い出したようね、なにもかも。昔を思い出して、良い子だった昔を。父さんが早くに亡くなったから、母さんは貴方を甘やかし過ぎた。だから翔ちゃんは、こんな子に育ってしまった。悪いのはみんな私なの」
中条は、老母の顔を盗み見た。暴力に怯える弱弱しい母親の姿はそこにはない。どこか毅然として自信に溢れている。
「翔ちゃんが舞さんと一緒に事故で死んだ後、洋子さんは家を出た。とうとう私は一人ぽっちになった。でも、そうなって初めて分かったの」
中条の目に涙が滲んだ。そうだ、舞も死んだ。お袋の実印を盗み出し、金を手に入れようとした矢先だった。かわいそうな舞、そして俺。しかし、今は、この地獄から抜け出せるチャンスかもしれない。中条には独り善がりとしか思えない母親の言葉は続く。
「結局、全ては自分に返ってくるってこと。甘やかしたことも、翔ちゃんの暴力に屈して言いなりになってしまったことも、借金をして後になってその付けが回ってくるように自分に返ってくるってこと」
母親は遠くを見るような目をして微笑んだ。
「もし、翔ちゃんに我慢するということを教えていたら、翔ちゃんは家庭内暴力に走ることもなかった。それが出来たら、どんなに良かったか。でも、今となっては後の祭りね。全ては私の犯した過ちなの。それがすべて私に返ってきただけ」
 母親の言葉は左の耳から右の耳に抜けていった。それより、中条は、今、重大な岐路に立たされていることを意識していた。どのくらいここに縛り付けられていたのか見当もつかないが、お袋の老けようから見て、10年以上経っているような気がする。
 じめじめした暗黒の世界、人の夢の中でしか生きられない人生、ここから抜け出さなければならない。藁にもすがる思いで、中条は母親に話しかけた。その声は上ずっていた。
「母さん、俺はどうしたらいいの。俺はずっとここで動かずにいた。誘う奴がいたけど無視して追い返した。だから、俺はここしか知らないんだ」
「心配いらないの。私が連れてってあげるから。昨日、私、死んだって言ったでしょう。そしたら、迎えに来た父さんが、翔ちゃんも連れてこいって、ここを教えてくれたの。だから心配しないで。さあ、涙を拭いて」
中条は母親にしがみついた。その胸に頬を押し付け、子供のように甘えた。
「僕もあっちに行けるの。僕も一緒に連れてってくれるの。お父さんのところへ」
「お父さんと一緒という訳にはいかないの、私たちは」
「何故、何故父さんと一緒じゃないの」
「だって、翔ちゃんは罪を犯したのよ。洋子さんを殺そうとしたでしょう。前科のある人は、無いひととはちょっと違うあの世に行くの」
「も、もしかして、ぼ、僕は地獄にゆくの」
「馬鹿ね、あの世に地獄なんてないわ。翔ちゃんが、今まで居た所が地獄じゃない。地獄は常に人間が作るものなの。翔ちゃんの地獄はまだいい方よ。お父さんが言うにはもっと凄い地獄があるんですって」
「でも、お母さんは、罪を犯した訳じゃないんでしょう。何でお父さんの所に行けないの」
母親は一瞬たじろいだが、気を取り直し答えた。
「だって、翔ちゃんだけじゃ寂しいでしょう。だから私は翔ちゃんと一緒にあの世に行くことにたの。そうよ、もう一度、やり直す時がくるまで、一緒よ、心配しないで」
この言葉を聞いて、中条は赤子のように母親に甘えて抱きついた。中条はほっと安堵のた
め息をつき、胸を撫で下ろした。

 この時、私は、あのことだけは、息子に漏らすまいと心に決めた。もし知られれば、あの世へ行ったとしてもそこが地獄と化すのは目に見えている。この世で地獄を味わったのだから、せめてあの世では心安らかに暮らしたい。
 翔ちゃんには悪いけど、私は洋子さんにあの家を残すことにした。弁護士の先生に相談して遺言書を書いたの。あの百坪の土地と家は洋子さんが相続することになる。それこそ、洋子さんは吃驚すると思うけど、私はずっとそうしようと思ってきた。
 洋子さんは私のことを大事に思い、尽くしてもくれた。翔ちゃんが死んで、家を出ると言い出した時はちょっと寂しかったけど、納得するしかなかった。翔ちゃんの思い出の残る家にはいられなかったのだ。何故なら、翔ちゃんを殺したのは洋子さんなのだから。
 洋子さんは追突事故直後、離婚を決意していた。その決意を翻させたのは私だ。だって、本当に、洋子さんがあの家に来てからというもの、何もかもが変わった。翔ちゃんの暴力は洋子さんに向かった。私を庇ったからだ。それでも洋子さんは、言うべきことをはっきりと言って、翔ちゃんを諌め続けた。
 だから、あの時は本当に必死だった。離婚を思い止めさせなければならないと思った。そして、とうとう私の本心を伝える決心をした。そう、こう言って引き止めたの。「二人で、翔ちゃんを何とかしましょう」って。そしたら洋子さんはきょとんとして聞いた。
「二人で翔ちゃんを何とかするって、どういう意味?お母さん、それってどういうことなの?」
私は何も答えなかった。言わずもがなのことだと思ったから。私はじっと洋子さんの目を見ていただけ。私は何も指示なんかしていない。洋子さんにしてみれば殺される前に殺す。私は何もかも失う前に息子に死んでもらいたい。これよ。
 そして洋子さんが動き出した。深夜、パソコンに向かうことが多くなった。恐らくインターネットとかいうやつで、何かを調べていたのだ。翔ちゃんの車に何か細工するつもりみたい。私はぞくぞくという興奮を味わった。そして心から声援をおくったものだ。
 だから翔ちゃんが実印を持ち出したと分かって、すぐさま洋子さんに知らせた。何とかして欲しいと懇願すると、洋子さんは、すぐに出かけた。二人の愛の巣に向かったのだ。私はいらいらしながら待った。いても立ってもいられなかった。洋子さんが帰ってきたのは夜中過ぎだ。疲れきっていた。私はかまわず聞いた。
「上手くいったの。ねえ、上手くいった?」
洋子さんは深いため息をついて答えた。
「明日にならなければ、それは分からないわ。ブレーキがきかなくなって事故は必ず起きる。でもその事故で彼が死ぬとは限らないの。それは運命よ。彼が死ぬか、それとも生きるか。つまり、私たちが勝つか、それとも負けるか、それを知っているのは神様だけ」
 それでは困るの、だから私は必死で食い下がった。
「ねえ、もし生きていたらどうなるの。この家はどうなっちゃうの、ねえ、何とかして、ねえ、何とかしてちょうだい。お願いよ」
洋子さんは自信たっぷりに微笑んだ。そして静かに答えたわ。
「大丈夫、お母さん。何とかする。次の手も考えてあるの。もし、今日のことが駄目だったら次の手よ。兎に角、早めに準備にかからないと」
「そうよ、急がないと、あの子が残っている100坪の土地も売ってしまう。そうなったらこの家を追い出されてしまうわ。だから、今度こそ、確実に……」
洋子さんはにこりと微笑んだ。
「貴方の息子の息を止めろと言いたいの?」
私は自分の言おうとした言葉に戦慄したが、割り切るしかない。そして強張った顔でぎこちなく微笑んだ。洋子さんには笑ったようには見えなかっただろう。言いたいことは分かっているのに、洋子さんも意地悪だ。そしてやぶれかぶれで言ってやったんだ。
「そうよ、そう言いたかったのよ。貴女だって同じ思いでしょう。この土地を売ったお金だって、いつか使い切ってしまう。そしてら、あの時みたいに、また貴女が狙われる。保険はまだ掛かったままよ。だから、そうなる前に、今度こそ、確実に翔ちゃんの息の根を止めるのよ」
洋子さんはゆっくりと首を縦に振った。そして、きっとなって居間の窓から真っ暗な庭先を睨んでいた。窓ガラスに洋子さんの顔が映し出された。その顔が奇妙に歪んだ。笑っているように思えた。
 私はあの時の洋子さんの顔が頭から離れない。ぞっとしたのを覚えている。でも、その顔は翔ちゃんも見ているはずよ。そうあの時よ。あの時の顔にそっくり。翔ちゃんの作り話、勝が洋子さん達に誘拐されて死んじゃう話よ。翔ちゃんは洋子さんに聞いたわ。
「お前は知っていたんじゃないか。勝の病気のことも、薬のことも知っていたんじゃないのか」って。洋子さんは、顔を奇妙に歪めて笑った。そして答えた。「ええ、知っていたわ。だから薬を捨てたのよ」ってね。あの時の歪んだ顔がそれよ。復讐心は人の心を鬼に変えるの。
 翔ちゃんは復讐に凝り固まって、洋子さんを酷薄な人間として夢の中で思い描いた。でも、私の必死の思いは洋子さんの心の深層に眠っていたそんな一面を引き出したのよ。人間はどんな人間にもなれる。置かれた状況によってどうにでも変わるの。
 結局、翔ちゃんは酔っ払った挙句、首都高の壁に激突してくれた。病院で息を引き取った時、私たちは抱き合って泣いた。それまでの緊張が一挙に氷解した安堵感、日常的な暴力から逃れられたという解放感が二人を包んでいた。何とも言えない瞬間だった。
 もっとも、私達の涙に誘われて、もらい泣きしている看護婦さんたちには、思わず二人して苦笑いしてしまった。確かに嫁姑が抱き合って号泣しているのを見たら、誰だって涙腺は緩んでしまうものね、まったく笑ってしまったわ。
 さてと、世迷言はこれくらいにして、そろそろあの世に向かおうかね。時間も限られていることだし。どっこいしょと。だけど、洋子さん、幸せそうだったな。最後のお別れだから会いに行ってきたけど、彼女、再婚して子供まで出来て。
 胸元をみると、翔は安心しきって寝息をたてている。よほど疲れているのだろう。でも、私にとってもあの世は初めて。いったいあの世ってどんな所だろう。父さんはあの世もこの世と大差ないって言っていたけど、ちょっと心配。
そうそう、あの世に行く途中に凄い地獄があるから近づくなとも言っていた。そうは言っても、自分は覗いてきたみたい。私も興味あるから覗いて行こうかしら。この世の見納めに。そう、地獄って、この世の側に在るんですって。この世の地続きみたいな所にぽつりぽつりと。ここもその地獄のひとつ。
 さあ、翔、だっこしたまま安住の地に連れてってあげる。この狭っくるしい地獄からお前を救ってやったのは母さんだよ。よく覚えておいて、あの世では孝行しておくれよ。ふっふっふ、さあ出発。
 この時、「ぎゃっ」という息子の悲鳴を聞いた。母親は慌てて胸に抱いた息子を見た。しかしその輪郭が失われつつある。その中心に必死の形相で自分を見つめる息子の顔があった。その顔さえ曖昧模糊となって消えかけている。母親が叫んだ。
「翔ちゃん、翔ちゃん、どうしたの。ねえ、何処に行くの。何処にも行かないで、お願い。」
すっと胸の感覚が消えた。母親は悲鳴をあげて立ち上がった。辺りをきょろきょろ見回し、そして駆け出した。あちこちをさ迷いながら必死で時間の限り探し回ったが、息子をあの世に連れて行くことは出来なかったのである。


 さて、翔ちゃんは何処に行ってしまったのでしょう。興味のある方は「怨時空」をお読みください。(右メニュの小説のカテゴリーにあります)
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