ヨブの涙
河童のヨブは必死で川を泳いでゆきます。急ぎすぎて硬い岩に膝
をぶつけてしまいました。ちょっと痛かったけど、我慢して泳ぎま
す。ヨブはあわてているのです。何故なら、美香ちゃんと約束した
時間に遅れそうだったのです。
急いだおかげで何とか約束の時間に間に合いました。川から顔を
あげて辺りをみると、美香ちゃんはとっくに川原に来て一人で遊ん
でいます。ヨブは川から上がって声を掛けました。
「美香ちゃん、もう来ていたの?」
「うん、待ちきれなくて、早めに来たの。ヨブちゃんも早かったね」
「急いで来たんだ。おかげで岩にぶつけて、膝を擦りむいちゃった」
「怪我をしたの、大丈夫?」
「大丈夫に決まってるさ。さあ、あの一本松まで競争しよう。よー
い、どん」
ヨブは全速力で走りだしました。遅れて美香ちゃんも走ります。美
香ちゃんが叫びます。
「ずるい、ヨブ。いきなり、よーい、どん、言うんだもの」
美香ちゃんはすぐにヨブを追い抜いてしまいました。ヨブは河童で
すから、かけっこは苦手なのです。それでもヨブは笑いながら美香
ちゃんを追いかけて行きました。
ヨブが美香ちゃんと友達になったのは2年前の夏のことです。川
原でしくしくと泣いている少女がいました。ヨブは気になって川か
ら顔を出して見ていたのです。すると少女が顔を上げて不思議そう
な顔をしました。
ヨブはおやっと思いました。普通、人間には河童の姿は見えませ
ん。でもごく稀にですが見える人間もいるのです。美香ちゃんはヨ
ブの顔をじっと見詰めています。しかたなくヨブは話しかけました。
「何故、君は泣いているの?何か悲しいことでもあったの?」
美香ちゃんが答えました。
「私、ひとりぽっちなの。お祖母ちゃんはいるけど、パパもママも
お友達もいないの」
ヨブは迷いました。人間とお友達になって、何度も悲しい思いをし
てきたからです。でも、つい少女が可哀想になって、こう答えてし
まったのです。
「もし、僕で良かったら友達になってあげようか?」
「えっ、本当に、うれしー。どうも有難う」
こうして、ヨブは美香ちゃんと友達になったのです。
美香ちゃんは、お昼を食べるといつも川原へと駆けてゆきます。
お祖母ちゃんがその後ろ姿に声をかけます。
「美香、工場のサイレンが聞こえたら、帰るんだよ。遅くならない
ようにね」
工場のサイレンは午後3時になります。この前、ヨブと遊んでい
て、気付かずに遅くなってしまったのです。そしたら、お祖母ちゃ
んは、心配して、隣の梅子小母さんと二人で、あちこち探したんだ
そうです。だから、いつもサイレンが聞こえると、ヨブとさよなら
するのです。
今日も、ヨブと遊んでいて、サイレンの音を耳にしました。
「ヨブ、もうお別れの時間。また明日、遊んでくれる?」
「ごめんね、美香ちゃん。明日は母さんと一緒に学校へ行くことに
なっているんだ。ごめんね」
「いいのよ、それなら仕方ないもの。」
ヨブは「お母さんの」という言葉を、つい言ってしまったことを
後悔しました。美香ちゃんは、自動車事故でお父さんもお母さんも
亡くしているのを思い出したのです。悲しげな顔の美香ちゃんがを
元気づけようと思いました。だから思い切って言ったのです。
「美香ちゃん。明日は会えないけど、いいものあげる」
ヨブは頭の上のお皿から、水晶のような透明の玉を取り出しまし
た。それは河童にとって命の次に大切なもの、これがないと魔法が
使えません。でも、魔法なんて使わなくともよいと思ったのです。
ただ美香ちゃんが喜んでくれる顔を見たかったのです。
「うわー、綺麗、すごーく綺麗」
「よーく、覗いてごらん。僕たちが会った時から、今日までの思い
出が全部詰まっているんだ。二人が話したことも全部聞こえるよ」
美香ちゃんが玉に耳をつけています。そして驚きの声をあげました。
「すごい、これ、美香が昨日お話しした声、すごい。これ、本当に
くれるの」
「あげたもの、返してなんて言わないよ。こう見えても男だよ」
次の日は、ヨブと会えなかった美香ちゃんですが、川原で玉を取り
出し、飽きることなくヨブとの思い出を見たり、聞いたりして、楽し
い時間を過ごしました。少しも寂しくなんてありませんでした。
ある日のことです。美香ちゃんがヨブに言いました。
「明日から、小学校へ行くの。バスに乗って通うのよ」
ヨブが悲しそうな顔をして答えます。
「小学校へ行くのか。良かったね。きっと友達もたくさん出来るよ。
僕のことは忘れてもいいんだよ」
「何を言っているの、ヨブはいつまでも美香のお友達。約束する」
二人は指げんまんをして約束しました。でもヨブは悲しい顔をして笑
っていたのです。
美香ちゃんが小学校へ通うようになって、二人で遊ぶ回数が少なく
なってきました。美香ちゃんに小学校の友達ができたからです。でも
、美香ちゃんはヨブのことを大切に思っていました。
でも、ある日のことです。美香ちゃんはヨブと約束した日に、大好
きな鈴木君からドッチボールに誘われました。鈴木君がにこにこ笑っ
て返事を待っています。
「ご免なさい。友達と会う約束をしたから帰らなければならないの」
「でも、ちょっとだけならいいだろう」
そう言われて、美香ちゃんは考えました。まだ時間はあるから、少し
だけなら大丈夫かもしれない。そう思って鈴木君に言いました。
「じゃあ、少しだけ」
時間はあっという間に過ぎてしまい、美香ちゃんは一時間も遅れて
約束の場所に着きました。そこには誰もいません。美香ちゃんは叫び
ました。
「ご免なさい、ヨブ。遅れてご免なさい。姿を見せて。謝るから、御
願い」
呼べど叫べどヨブは姿を現しません。川原を行ったり来たりしてい
るうちに、美香ちゃんは泣き出してしまいました。泣きながら何度も
叫びます。
「ご免なさい、ヨブ。ご免なさい」
そして、川原に座り込み、膝を抱え、しくしく、しくしくと泣きま
した。初めてヨブと出会った時のように。
でも、ヨブはそこにずっといたのです。泣いて座り込む美香ちゃん
を後ろから抱きしめていたのです。でも、美香ちゃんはそれに気付き
ません。ヨブが言います。
「美香ちゃん。いいんだよ。君が少し大人になっただけなんだ。大人
になると、人間は僕の姿が見えなくなるんだ。人間とお友達になって、
淋しい思いをするのは分かっていたのに、僕は美香ちゃんに話しかけ
てしまった。でも、良かったね、友達が出来て。友達を大切にね」
ヨブの目からポロリと涙がこぼれ落ちると同時に、美香ちゃんの手
から二人の思い出が詰まった水晶のような玉もポロリと落ちました。