夢の続き
荒川の桜堤の道を少女が駆けています。花びらが舞い散る狭い歩道をにこにこしながら…。ジョッキング中のお兄さんが笑みを洩らして振り返ります。
少女は自分の身の丈ほどの竹刀を背負い、真っ白な剣道着に紺袴、その袴の裾を桃色の紐で縛っています。その後ろをお母さんが防具袋を小脇に抱えて追いかけます。
剣道教室に通い始めて1年、今日、ようやく防具を着けることをゆるされました。峯ちゃんの待ちに待った時が訪れようとしてるのです。
峯ちゃんはママと二人暮しです。でもさみしくなんかありません。何故なら、お星様になったパパが、いつも二人を見守ってくれているからです。だから峯ちゃんはいつでもおりこうさんでいようと思っていました。
でも、どうしてもママにおねだりしたいことがありました。ずっと前から言うかどうか迷っていましたが、去年の桜の咲く頃、峯ちゃんはお母さんに思い切ってお願いしたのです。
「ママ、私、剣道習いたいの」
お母さんはびっくりして聞きました。
「どういうことなの、峯、何で剣道なの?」
お母さんが驚くのも無理はありません。峯ちゃんは女の子ですし、まだ小学一年生になったばかりです。
不思議そうな顔をしているママの顔を見て、峯ちゃんは、慌てて言いました。
「いいの、ちょっと言ってみただけなの」
峯ちゃんは黙ってうつむいてしまいました。お母さんはにこりと笑って口を開きます。
「いいわ、峯ちゃんがやりたいと言うのなら、剣道教室を探してきてあげる。」
こうして峯ちゃんの剣道教室通いが始まったのです。
峯ちゃんは一生懸命でした。何故なら峯ちゃんは一日も早く一人前の剣士にならなければならなかったのです。でも、道場では来る日も来る日も竹刀を「えい、やー」と振るばかりです。峯ちゃんは面や胴をつけてチャンバラがしたいのです。でも、先生はそんな峯ちゃんの心を知りませんでした。
実は、峯ちゃんにはチャンバラで勝たなければならない相手がいたのです。この相手というのが、強くて大きなお侍さんです。これまで何度も何度も戦ってきました。と言っても、それは夢の中の話なのです。
峯ちゃんは同じ夢を繰り返し見ていました。いつも同じ川原で、桜堤を背に、そのお侍さんは立っています。不思議なことに、そこには峰ちゃんのお兄ちゃんがいて、二人一緒になってそのお侍さんと戦うのです。
お兄ちゃんの名前は則之介、19歳。峯ちゃんの名前は同じ峯で14歳。相手のお侍さんは多賀谷昌幸と言って、父のかたきなのです。昌幸はチャンバラが上手で、二人一緒に掛かっても、なかなか勝てません。
夢の中のことです。峯ちゃんが思わず叫びました。
「兄上、危ない。」
お兄ちゃんの則之介は、後ろにさがった時、尻餅をついてしまったのです。峯ちゃんは、お兄ちゃんの前に立って、竹刀の先を昌幸に向けました。昌幸はにこにこと笑っています。峰ちゃんは昌幸を睨みつけ、大きな声で叫びました。
「ええい、笑うな。何がおかしい。そうやって笑っていられるのも今のうち。今度、剣道教室に通い始めたんだから」
そう叫んで夢から覚めたのですが、何故、かたき討ちなのに、刀ではなく竹刀なのか不思議に思い、夢の中で、お星様のパパに聞いたことがあります。
「パパ…、パパのかちな敵討ちのに、何故、竹刀なのかしら? テレビで見たかたき討ちは刀だったのに・・・」
「だって、峯ちゃんが怪我でもしたら大変じゃないか。竹刀だったら安心だ」
「えっ?だってパパは昌幸にやられちゃったんでしょ。私、いつも『父のかたき、覚悟』って、昌幸に言ってるんもの」
「まあ、仇(かたき)は仇だけどね、ふっ、ふっ、ふっ」
「やっぱり、そうでしょう、私、昌幸のことを心から憎んでいるもの」
「おやおや・・・、それは困ったね・・・」
「何が、困ったの?」
「いいかい、峰、どんなことがあっても、人を心から憎んではいけないんだ。人を憎む気持ちを持つと、自分の心が歪んでしまう。”心が歪む”って分かるかい」
「うん、分かる。心が真っ直ぐでなくなるんでしょう」
「そうだよ。心が真っ直ぐでないと、人は真っ直ぐに成長出来ないんだ。だから、約束しくれるかい、峰。昌幸と戦う時は、勝ちたいという心だけで戦うんだ」
「うん、分かった。パパ。これからそうする・・・でも・・・」
「でも、何だね? 」
「でも、パパ、私、昌幸のこと・・・すごーっく嫌いなの。」
「うーん、困ったねー。パパにとって昌幸は仇(かたき)といっても、決して嫌いではなかったんだよ。剣道が強くて、むしろ憧れていたんだ。だから峰ちゃんにも昌幸のことを好きになって欲しいんだ」
「それってどういうこと?」
「峰ちゃん。それはねー、いずれ分かるときがくるから、それまで待ってくれるかい」
「うーん、分かった」
と答えたものの、峰ちゃんには納得はできませんでした。
峯ちゃんにとって、とんでもない出来事が起こったのは、防具を着けるようになって半年後のことです。顔にタオルを巻いて、ぶかぶかの面を後ろからお母さんにキツーく縛ってもらっている時でした。上の方から声が聞こえたのです。
「おやおや小さな可愛い剣士さんだな。今日から一緒にお稽古しようね。君は幾つかな?」
「七歳です。」
と元気に返事してしまってから、峯ちゃんは、その声の主の顔を見て、ぎゃーと悲鳴を上げて泣き出しました。何故なら声を掛けてきたのは、あの昌幸だったからです。泣き叫び、手足をばたつかせる峯ちゃんに、母親も昌幸もおろおろするばかりでした。
その父のかたきが新しい剣道の先生だと後で知りました。さらに峯ちゃんを驚かせたのは、お兄ちゃんの、則之介が、昌幸の子供だったことです。そのお兄ちゃんの則之介は、小学校6年生で名前を則夫君と言います。
練習が始まる前、道場では、いつも昌幸が則夫君の相手をしています。昌幸は夢の中と同じように、お兄ちゃんに「声が小さい」とか「もっと強く」とか声をかけるのです。
その様子をちらちらと見ていて、峯ちゃんは、いつも夢の中でしているようにお兄ちゃんと一緒に昌幸とチャンバラがしたくてたまりません。面を着けて見て見ない振りをしているのですが、昌幸がいつも声をかけてくれます。
「さあ、峯ちゃん。今度は君の番だ」
峯ちゃんが「うん」と言うと、則夫君はお辞儀をして稽古を終わります。夢の中のように一緒にチャンバラができないのです。しかたなく峯ちゃんは一人で昌幸にかかってゆくしかありません。寂しくてなりませんでした。
それから半年後、ママと昌幸は結婚しました。峯ちゃんが小学校2年生の終わりの頃で、昌幸も則夫君と二人暮らしだったのです。それ以来、あの夢は見ません。でも、時々、思い出しては不思議な気がするのです。どうして、ママと結婚するずっと前に、昌幸パパのことを夢で見たのか?それに夢と同じようにお兄ちゃんが出来たことも不思議でなりませんでした。
ある晩のことです。峯ちゃんがお兄ちゃんの部屋を覗きます。則夫君は勉強をしていました。
「お兄ちゃん、お話したいのだけど、ちょっとだけ、いい?」
「おや、峯ちゃん、いいよ。さあ、ここに座りな」
と言って、いつものように小さな椅子を勉強机の隣に用意してくれます。そこで普段勉強を教わるのです。峯ちゃんはいつものように「よっこいしょ」と言って座ります。
「お兄ちゃん、実はね・・」
と、峯ちゃんは夢の話を始めました。誰にも話したことのない夢の話。昌幸パパを相手に、お則夫兄ちゃんと二人一緒に戦ったことを話したのです。そして、お星様のパパが言った二つのことも話しました。
一つ目は、峰が昌幸を嫌いだと言ったとき、パパは昌幸に憧れていたのだから、峰ちょんも昌幸を好きになりなさいと答えたこと。二つ目は、パパが昌幸に憧れていた理由を聞くと、いつか分かるときが来ると言ったことです。
お兄ちゃんはじっと聞いていました。話を聞き終わると言いました。
「峯ちゃんは、きっと夢で未来を見ていたんだよ。夢は時々、その人に未来を見せてくれることがあるんだ」
「それって、本当?」
「ああ、本当だよ。ねえ、正直に言ってごらん。昌幸パパと峯ちゃんのママが結婚したとき、峯ちゃんはどう思ったの?」
「ちょっといやだった。だって、お星様のパパが可哀想な気がしたの」
「そうだと思った。きっと峯ちゃんは夢の中で、結婚なんて許さない、昌幸パパなんて大嫌い、と言いながら戦っていたんだと思う」
「ふーん、そうなのかしら?その頃のことはよく覚えていないの」
「だから峰ちゃんのパパは、峰ちゃんに昌幸を好きになりなさいって答えたんだと思う。だって僕たちのパパとママは結婚するんだから」
「そうかー、でも、良かった。今はどっちのパパも好きだもの」
「きっと、夢を見なくなったのは、峰ちゃんが昌幸パパも好きになったからだ。でも、二つ目の、峰ちゃんのお父さんが昌幸パパに憧れていたって、どういうことだろう?」
「うーん、分かんない」
「でも、峰ちゃんパパはいずれ分かる時が来るって言ってたんだろう。だったら分かるときまで待てばいい。それより、いいことがある。明日、日曜だから、パパに頼んでみよう」
「何を頼むの?」
「それは、明日のお楽しみ。さあ、遅いからもう寝なさい」
翌朝、峯ちゃんはお兄ちゃんに起こされました。
「さあ、早く支度をして。パパが庭で待っているよ」
目をこすりながら峯ちゃんが聞きます。
「何をするの」
「勿論、夢の続きだよ。きっと峰ちゃんのパパも見ているよ」
お兄ちゃんと一緒に、峰ちゃんは二階から居間に下りて行きました。その居間から庭を見ると、そこには昌幸パパが竹刀をもって立っています。昌幸パパが庭から声をかけてきました。
「さあ、そこに竹刀が二本ある。二人とも、遠慮はいらないよ。何処からでもいいから一緒にかかってきなさい」
ママはにこにこしながらその脇で洗濯物を干していました。遠く、荒川の桜堤は今年も色づき始めています。ふと、薄桃色に染まる景色を眺め、ママは心の中で呟きました。
「峯ちゃん、パパに会わせてくれて、本当に有難う」
峯ちゃんのママは気付いていないけど、ほんとうはお星様のパパが二人を会わせてくれたのです。峰ちゃんがそう思うようになったのは、もっと大きくなってからのことですが、パパが言った二つ目のこと、昌幸に憧れていた理由についてはとうとう答えを見つけることは出来ませんでした。本当のことを知っているのはパパだけ。
誰も知らないパパのずっとずっと昔の話。実は、パパは小学3年まで剣道少年でした。その後、野球に夢中になり剣道を止めてしまうのですが、そのきっかけを作ったのは昌幸パパだったのかもしれません。何故なら、剣道より野球の方が自分に向いていると思わせたのですから。
パパは、大きな大会の前の地区予選で、いつも昌幸パパに負けて大きな大会には出られませんでした。でも、パパは、悔しさより強い昌幸に憧れを抱いていたのです。
ですから、荒川土手沿いの剣道場に昌幸が先生として来ることを知った時は、本当に驚きました。そして、ママと峰ちゃんを会わせようと思ったのです。あの夢は、パパの夢の続きで、峰ちゃんが昌幸のように強い人間になって欲しいと願って夢を見させていたのです。そしてママのことも・・・。