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夢盗奴  第一章

 真夏の強い日射しが容赦なく降り注ぎ、むっとするような大気は周囲の雑木林から響く蝉時雨に揺らめき、不快なざわめきと共に体にまとわりつく。男は手をかざして日射しを見上げ、手の甲で額の汗を拭う。大きく息を吐き、そして門に向かって歩き始めた。
 男は頭を垂れ塀の外へ足を一歩踏み出し、娑婆の空気を大きく吸い込む。そして、視線を上げた。しかし、その目には何も飛び込んでは来ない。万が一という男の期待は裏切られた。惨めな思いが胸いっぱいに広がり、犯した罪の重さを改めて思い知らされた。
 服役一年目の秋、妻から離婚届が送られてきた。面会の頻度が次第に遠のき、ぱたりと途絶えてから久しく離婚は覚悟していた。妻はまだやり直しがきく。だとすれば服役囚の妻という立場に縛り付けておくのは理不尽だ。すぐに判を押し、送り返した。その別れた
妻の出迎えを期待するなどお笑い種だった。男は深い溜息をついた。
 男の名前は中条翔、45歳。一人の女性を殺めて服役していたが、刑期を2年残し出所した。服役前は、ごくごく普通の会社員だった。それが、何故殺人などという重罪を犯したのか。それは復讐だった。子供が殺され、犯人達を許せなかったのだ。
 今でも女を殺した時の感触がその手に残っている。凶器を振り下ろした時の衝撃、骨の砕ける音、血の臭い、すべてが瞬時に甦る。中条の目には、激情から覚め呆然と惨劇の場に立ち尽くす自分の姿が映っている。その髪が真っ白に染まってゆく。

 服役直前、中条は狛江にマンションを建てた。その権利の半分は別れた妻に贈ったが、それでも一生食うには困らないほどの資産だ。しかし、ぬくぬくとした安逸な生活など思いもよらなかった。犯してしまった罪の重さがそれを許さない。そう感じていた。
 中条は知り合いの不動産屋に八王子でアパートを探してもらうことにした。八王子は中条が学生時代を過ごした思い出の深い街だ。その街の、ひっそりした安アパートが良い。暗くてじめじめした部屋を探してくれと言うと、不動産屋は目をぱちくりさせていた。
 ホテルに連絡が入り見に行くと、思いのほか小奇麗なアパートなので多少不満ではあったが、面倒なのでそこに決めた。家賃月8万。ワンルームだがキッチン、バス、トイレ付き。男一人、孤独に死んでゆくにはちょうどよい広さだと思ったのだ。
 そこに落ち着いてからというもの、日は徒に過ぎていった。涙ぐむことしきりで、通り過ぎる時を無為に眺めるしかなかった。全てが中条の指の隙間から零れ落ちていった。愛する妻と子、家庭と言う安らぎの場は永遠に失われたのだ。
 いっそ食を断って死のうかと思ってはみたものの、軟弱な体がそれを拒む。萎える足をふらふらさせてコンビニに向かう。そんなことを繰り返していた。今日も三日の絶食に耐えられずアパートのドアを開けて外にでた。いつものコンビニに向かうつもりだった。
 頬を撫でる涼秋の風があまりにも心地よく、少し散策してみようという気になった。しばらく歩むと、懐かしさがじわじわと込み上げてくる。八王子の街、全てがこの街から始まった。悲劇の幕切れではあったが、間違いなくそこには青春があったのだ。
 繁華街に足を向ける。駅前には予備校が多い。雑踏には大学生なのか予備校生なのか見分けのつかない男女が屯する。人も、街の佇まいも、目に入る全てが目新しい。8年という月日は人の心も、外見も、街並みさえも変えてしまった。ふと、胸騒ぎを覚え、歩みをとめた。
 誰かが、自分を呼んでいる。あたりを見回した。一本の道がまっすぐ伸びている。そうだこの道だと直感した。微かな思いが中条の脚を突き動かした。狸のような化粧をした少女達、耳飾りをした男達を尻目に異国の街を急ぐ。
 駅を通り過ぎ、大学に向う道沿いを歩いた。誰かが中条を待っている。そんな気がしてならなかった。10分ほど歩くと、細い路地が目に入った。おもむろに覗き込むと、50メートルほど先に質屋の看板が見える。
 その看板には記憶があった。かつて学生時代、何度も世話になった店だ。質草はいつも時計だった。中条はその質屋に足を向けたが、ふと歩みを止めた。質屋から若者が出て来る。若者は財布を尻のポケットにねじ込んで中条の方に向かって歩き始めた。
 中条の膝はがくがくと震え、鳥肌がたち、それが体中に広がっていった。驚愕で見開かれた目は、その若者に釘付けになっていた。喉がからからに乾いて、声がかすれた。
「あれは、俺だ。25年前の俺じゃないか」
 中条は、その若者のジャケットの柄、落ち葉の季節、そして顎髭を見て、その時の記憶が鮮明に蘇った。今歩いて来た道沿の喫茶店に、あの洋子を待たせている。金を作ってくると言ってその店を出て質屋に駆け込んだのだ。
 そして、遠い記憶の片隅から一人の老人の姿が浮かび上がった。中条は思わずうめいた。その日、質屋を出ると、頭のいかれた爺さんに出会ったことを思い出した。
「あの爺さんは、今の俺だったのか!」
ざわざわという振動が背筋を駆け登る。遠い過去から現在に至る記憶の断片が浮かんでは消え、自分を地獄の底に陥れた女性の顔が脳裏に描かれてゆく。最後にはっきりとその輪郭が現れた瞬間、中条は若き日の自分に向って駆けだした。

 中条は質屋を出た。月半ばにして親からの仕送りが底を尽き、洋子とのデート代にもこと欠くありさまだった。親父の残してくれた時計は質屋で20万の価値があると言われたが、引き出す時に苦労するので10万だけ借りることにしている。
 喫茶店で待っている洋子の姿を思い浮かべた。自然に顔がほころぶ。ホテルに行って、それから、洋子の好きな焼肉屋にでも連れていこうと考えた。するとそこに白髪の老人が息せき切って駆けより、目の前に立ちふさがった。
 老人は、目に涙を浮かべ、何かを訴えようとしている。一瞬、何が言いたいのか興味を惹かれたが、すぐに待ちわびている洋子の顔を思い浮かべ、適当にあしらうことにした。
「おじいちゃん、申し訳無いけど、今、急いでいるんだ」
老人は大きく口を開き、ぱくぱくと唇を動かした。言いたいことが山とあるのに、なかなか言葉が出てこないといった案配だ。笑いをかみ殺していると、老人の口からようやく言葉が吐いて出た。
「洋子とは別れるんだ。今すぐに。今なら間に合う」
きょとんとして中条は尋ねた。
「おじいちゃん、洋子のこと知っているの?」
老人の唇はわなわなと震え、そこに唾液の泡を浮かべている。中条は困惑したまま老人の顔を見詰めた。その時、老人が叫んだ。
「知り合いなんてもんじゃない。いいか、よく聞け。俺は25年後のお前なんだ。そしてお前である俺は洋子を殺した。お前は人殺しになりたいのか」
中条はすぐに悟った。狂人だ。何処かで中条と洋子のやり取りを聞いて、洋子の名前を知ったに違いない。にやにやしながら中条は老人の横を擦り抜けると走りだした。しばらく行って振り向くと、
「分かったよ、おじいちゃん。ご忠告有難う。それじゃあね」
と哀れな老人に言葉を掛けた。踵を返し小走りに立ち去る中条の耳に、老人にしては若い野太い声が響いた。
「洋子は性悪女だ。根っからの性悪女なんだ」

 洋子との出会いは正に偶然が与えてくれた賜物と言ってよい。中条は大学の演劇部で演出を手がけていたが、公演の一月前に主役が下らない理由で降りてしまったのだ。主催者である中条達は焦って、急ぎ一般公募のオーディションを行った。
 そこに現れたのが洋子だった。審査委員全員で洋子を選んだ。もしかしたら、その時、全員が洋子に惚れたのかもしれない。洋子は純日本的な美人タイプだが、そのスタイルは白人のそれだったし、皆、その豊かな胸に視線を奪われたのも事実だ。
 その洋子の心を最初に捕らえたのが、演出を手がける中条だったのは、或は役得ともいえるが、中条もなかなか魅力的な男であることは誰もが認めるだろう。二人は急接近し愛し合うようになった。そんななか、中条はあの老人と出くわしたのだ。
 喫茶店に戻ると、洋子は唇をとがらせている。
「随分待たせたじゃない、すぐ戻るって言ったのに」
「ご免、ご免、ちょっとそこで友達に会って話しこんじゃったんだ」
中条は頭を掻いて、ちらりと洋子の顔を覗った。老人の言った「性悪女・洋子を殺す」と
いう言葉を思い出したのだ。きらきら光る瞳が悪戯っぽく動く。見詰められるとその瞳に吸い込まれそうになる。中条は、微笑みを返した途端、老人の言葉を忘れた。

 中条は大学を卒業すると大手自動車メーカーに勤めた。卒業間際まで、演劇の道を模索していたのだが、その道を選んだクラブの先輩諸氏の惨めな生活を見るにつけ、夢のみで生きてゆくことに自信を喪失していた。
 散々迷った挙句、最終的には、母親のコネの効く就職先に決めたのだ。洋子は諸手を上げて喜んだ。洋子にしてみれば、結婚を前提に付き合ってきたはずなのに、演劇の道に進まれては、それが遠のくと思っていたようだ。
 一年後、中条は洋子を家に招き母親に紹介した。結婚を前提に付き合っていることを告げるためだ。しかし、洋子の帰った後、母親の一言は意外なものだった。
「翔ちゃん、私はこの結婚に賛成できないわ。別に年上だからというわけじゃないの。何故か分からないけど、最初に彼女を舞台で見たとき何か胸騒ぎがしたの。彼女の瞳の底にある冷たさみたいなもの、それが胸騒ぎの原因だと思う」
 静かに言う母親の言葉に思わず背筋がさわさわと震えた。あの老人の言葉をふと思い出したのだ。しかし、この3年の付き合いで、洋子の性格は知り尽くしていた。純粋で繊細、正義感が強く、こうと決めたら意志は固い。意外に涙もろいところもある。
 性悪女の影はどこにも見出せなかった。しかし、見出せなかったからこそ、母親の言葉に衝撃を受けた。老人の言葉など笑い飛ばしていた中条だが、母親の発したこの言葉は記憶の片隅に太文字で刻まれたことは確かだ。

 社会人2年目の春、同じ課に配属された新人の片桐舞が猛烈にモーションをかけてきた。中条に婚約者がいることを知っての行動だった。何故なら、洋子はしょっちゅう会社に電話を掛けてきたし、中条もそれが婚約者だということを隠したりしなかったからだ。
 舞は、男性社員達の一躍アイドルになるほど可憐な女性だった。そのやや大きめでふくよかな唇は、どこかエロチックな印象を与えるが、子供のような無邪気な一面を併せ持ち、何とも不思議なフェロモンを発散させていた。
 その舞からモーションを掛けられたのだから、中条も悪い気はしなかったが、洋子を裏切る気はなかった。しかし、舞の積極性は徐々に中条の心を開いていった。そして或ることをきっかけに、中条は一歩舞に近づくことになる。
 それは、中条が舞ともう一人の部下に、急遽残業を頼んだ時に始まる。翌日の会議資料が間に合いそうもなかったのである。これに舞が唇を尖らせて抗議した。
「主任、残業なら残業と前もって言ってくれなきゃ困ります。だって今日、叔父が、この
先の四丁目に勤めているんですけど、私と恵美にステーキをご馳走してくれることになっ
ているの。ねえ、恵美」
恵美が眉を上げにこにこしながらそれに応える。叔父さんの話は怪しいとは思ったが、ここは下出にでるしかない。
「そう言わず、頼むよ。この埋め合わせはするから」
舞は、この言葉を聞いて目を輝かせた。
「本当、主任、本当なんですね。じゃあ、その店、今度予約してもいいかしら。今週の金曜日。ねえ、恵美、それだったら今日の叔父さんのお誘い、断ってもいいわよねえ」
恵美の反応は最初と同じで、その笑いにはどこか困惑の色が見え隠れする。
「よし、分かった。予約を入れておいてくれ。僕が奢る。それじゃいいね、残業してくれるんだね」
「勿論よ、さあ、さっさとかたずけちゃいましょう」
これを聞いて、ほっと胸を撫で下ろしたのだが、何故か胸騒ぎがしてならなかった。金曜日、恐らく恵美は来ない。舞と二人だけのデートになる。婚約者を裏切る行為に足を一歩踏み出したような気がして心が騒いだ。
 
 金曜の夜、店に入ってゆくと、案の定、舞が一人でテーブルに着いて待っている。近づく中条にいたずらっぽく笑う舞に対し、微笑みで応えている自分を意識しながらわざとらしく声を掛けた。
「あれ、恵美さんは」
「恵美は急に都合が悪くなったんだって」
こう言うとぺろっと舌を出した。この瞬間、中条は、心の底から舞を抱きしめたいと思った。いとおしいと感じたのだ。しかし、その感情を押し殺した。
「最初から、その予定だったんじゃないの。叔父さんの話もでまかせなんだろう」
「ご免なさい。だってちっとも誘ってくれないんですもの。だから……こうするしかなか
ったの」
「でも、君も知っての通り、僕には婚約者がいる。そんな僕が他の人とデートするわけに
はいかないんだ」
舞はうつむいて唇を噛んだ。下から見上げるようにしてぽつりと言った。
「でも、好きなんだもん」
中条はごくりと甘酸っぱい唾を飲み込んだ。あまりの可愛さに胸が震えた。揺れ動く心、疼く下半身、いかんともしがたい。その思いを気取られぬよう、きっぱりと言った。
「まあ、いい、兎に角、注文しよう」
食事をしながらのたわいない話が続く。ステーキは確かに美味いのだろうが、味などさっぱり感じなかった。口の中がからからに乾いてビールを何杯も頼んだ。思いのほか酔ってきている。酔って早めに良心を捨ててしまおうとしているかのようだ。
 食事が終わりに近づいた。これからどうするかが問題だった。これで勘定をすませ、「それじゃあ、また明日」と言えば全てが終わる。しかし中条の体の芯が疼き、いとおしいという思いは抑えがたく、このまま終わらせることは不可能に思えた。
 沈黙が二人を包んでいたが、暗黙の了解は絡み合う二人の視線に込められていた。中条が席を立ち、レジで清算を済ませていると、後ろを舞がすり抜け、ドアの外に消えた。レジで渡されたレシートをくちゃくちゃに握りつぶし、中条がそれに続く。
 タクシーがゆっくりとブレーキをかけ止まった。その時、中条の脳裏に洋子の悲しむ顔が浮かんだ。タクシーに乗り込もうとする寸前だった。ドアに左手をかけ、自らの動きを封じた。その手に力がこもった。「くそっ」と呟き、意を決した。
 体を開いて、戸惑う舞の背中に手を回し車に押し込んだ。一万円札を運転手に握らせ、
「荻窪まで」と言うとドアを閉めた。舞が窓から顔を覗かせている。悲しげな目が中条に注がれている。その顔がゆっくりと遠ざかる。中条はタクシーのテイルランプをいつまでも見詰め続けた。

 翌日、舞は休んだが、翌々日には元気に出勤してきた。いつもと変わらぬ笑顔で中条に笑いかけてくる。中条もにこりと笑ってそれに応えた。その日、舞から内線電話がかかっ

てきた。舞の忍びやかな声が響く。
「見直しちゃったわ。主任って、どこまでも誠実なのね。あらためて惚れ直しちゃった。
私、諦めない」
「そう言うな。僕は婚約者を傷つけたくない。それを分かって欲しい」
中条は深いため息をついた。舞のふふふっというひそめくような笑い声が耳に残った。
 それから一月後のことだ。夕刻、一週間ほど会社を休んでいた舞から電話が入った。今、
駅前ビル5階の喫茶店に居るという。
 事務所がひしめくフロアーの一角にその喫茶店はあった。入ってゆくと、舞は奥のボックス席に思いつめたような顔で座っている。溌剌とした新人がやつれ果て、目の下には隈さえ見受けられる。中条は座るなり声をかけた。
「一週間も休んでいるから心配したぞ。恵美さんに頼んで、様子を見てきてもらおうと思っていたところだ。風邪だと言っていたけど、もう大丈夫なのか?」
そんな中条の質問など聞こえなかったかのように、舞が堰を切ったように話し出す。
「ごめんなさい、こんなところに呼び出したりして。でもこうするより仕方なかったの。というのは、どうしても話しておきたいことがあるの。この話を聞いたらきっと主任も目が覚めると思う。主任はあの人の本当の姿が見えていないの。お願い聞いて。ねえ、聞いてちょうだい」
中条は憮然として答えた。
「ああ、聞くだけは聞く」
舞は洋子のことを言っているのだ。まさか、舞は洋子と接触したのだろうか。不安が胸をよぎった。中条の迷惑顔に舞はたじろぎもせず話しを続ける。
「あの人は異常よ。この一週間、私がどれほど怖い思いをしたか分かる。あの洋子さんが私に何をしたと思う?」
やはり舞は洋子と接触していた。驚きが中条の胸をざわつかせた。まさかそこまでするとは思ってもみなかった。
「そんなことは知らない。僕にとって問題なのは、僕の意思を少しも尊重してくれない君の行動の方だ。その気はないと最初に断ったはずだ。本当を言えば迷惑している」
「分かったわ、もう私は主任のこと、諦める。好きで、好きでどうしようもなかった。でも、もう、諦めるしかないもの」
そう言うと両手で顔を覆ってわっと泣き出した。そして、ハンカチで涙を拭きながら話し始めた。
「あの人が怖いの。怖くて怖くてしょうがないの。私だって最初は少しもひるまなかった。呼び出されて文句言われたけど何ともなかった。ほっぺたをひっぱたかれたけど、二倍にして返したわ。でも、……、思い出しただけで身震いしちゃう」
「いったい彼女は君に何をしたというんだ」
それには答えず、舞は話し続ける。
「あの時、そう、頬を叩き返した時のことよ。彼女の顔が凄かったの。あれほど憎しみに満ちた顔を私は見たことないわ。口から血を流して、その血をぺろりと舐めた。そして私を睨みつけていたの。怖くて体が震えたわ」
中条はそのあまりに大げさな言葉と表情に苦笑いを浮かべた。すると、舞が血相を変えて叫んだ。
「本当なの、本当なんだから、信じて。私はこの世が一瞬にして地獄に変わっちゃったんじゃないかと思ったくらいよ。本当なの、ねえ、信じて」
声は震え、その目には涙を湛えている。心底怯えているのだ。ふと、老人の言葉が脳裏をかすめ、冷たい振動が中条の背筋を駆け抜けた。中条が重い口を開いた。
「いったい、彼女は君に何をしたんだ」
「それが、とんでもないことよ。あそこまでやる人だとは思いもしなかった」
ここで一呼吸間をあけて、話し出そうとした正にその時、舞の目は一瞬にして凍り付いた。大きく見開かれた瞳は一点を凝視している。中条は振り返った。そこにはお茶目な笑みを浮かべ、手を小刻みに振っている洋子がいた。
 ガタッという音に続き、グラスが倒れコーヒーがテーブルにこぼれた。舞が我を忘れて立ち上がった拍子に、テーブルにぶつかったのだ。舞はそのまま駆け出していた。洋子を避け、入り口を目指した。何度か躓いて倒れそうになったが漸く店を出て行った。
 洋子は口を押さえて笑っている。ウエイターがテーブルを整え、何事もなかったように立ち去った。洋子が席に近付いてくる。洋子は二人がこの喫茶店にいることをどうして知っていたのか、まさか舞をつけていた?中条の心に暗い疑念が浮かぶ。
 洋子が席に着いた。にこにこといつもの可愛い笑みを浮かべている。ぞくぞくという恐怖が中条の背筋を登ってゆく。舞に取り憑いていた恐怖のウイルスが中条に感染したのか
?あの老人の言葉が脳裏に蘇った。『洋子は性悪な女なんだ』
「何故この喫茶店が分かったんだ?」
「簡単よ、野田さん、貴方の隣の同僚。この間、一緒に飲んだじゃない。その野田さんが、貴方の言葉を覚えていたの。『えっ、交通会館の5階、そんな所に喫茶店なんてあったっけ』これ貴方が言った言葉よ。だからここに来たの。そしたら彼女がいるじゃない。驚いちゃった」
なるほど、納得がいく。確かに、舞の電話にそう答えて切ったのだ。
「彼女は君を怖がっていたが、君は彼女に何かしたのか」
洋子は見る見る表情を曇らせ、終いには目に涙を滲ませた。今にも泣きそうな顔を俯かせ、ぽつりぽつり話し始めた。
「冗談じゃないわ。何かしたのは彼女の方よ。執拗に無言電話を繰り返し、しまいには会社にまで電話してきて、あることないこと言いふらして、全く信じられない。彼女、貴方に夢中なのよ。貴方に対する執着が彼女を狂わしたのかもしれない」
中条はウエイターが入れてくれた二杯目のコーヒーを口に含んだ。苦い。中条は心の内で一人呟いた。本当だろうか、舞が常軌を逸したというのは?確かに舞の様子は尋常ではなかった。言われてみればそんな気もしてくる。洋子の言葉が続く。
「あの人、どうかしてるわ。何度呼び出されたか分からない。その度に、貴方と別れろってしつこく迫るの。今の会社にいられなくしてやるって。最近では上司も私に不審な視線を向けている」
ここで言葉を切った。そして涙声で言った。
「あの人が、私のこを、誰とでも寝るって、尻軽な女だって、会社の同僚に言いふらしたのよ」
洋子は突然テーブルに突っ伏した。その肩が小刻みに震えている。
 何が真実なのか分からなくなった。恐怖に顔を歪ませる舞も、目の前で泣き伏し肩を振るわせる洋子も、ともに演技しているとは思えない。しかし、明らかにどちらかが嘘をいっている。結局、真実は分からずじまいで、二人の交際もずるずると続いていった。

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