不思議なお話No41 日本人の特殊性V 

 

 一昨日、「不思議なお話No40 日本人の特殊性V」を書き上げてアップしたばかりなのですが、もう少し続きが書きたいという思いがもぞもぞと沸き起こってきました。僕は根っからの屁理屈屋なのでしょう。日本人の右脳の働き、そしてその伝統文化についてお話を続けたいとおもいますので、是非おつき合い下さい。
 ところで、皆さんは僕のエッセイ「インターネットの文化人類学的な意味」をお読み頂いたでしょうか? 今日書こうとしているテーマはこのエッセイと非常に関係の深いものとなります。恐らく、お読みでない方もいらっしゃると思いますが、話の都合上引用する際はエッセイよりもう少し分かりやすく書くよう心掛けるつもりですので、読み返すのが面倒な方はこのまま続きをお読み下さい。
 さて、日本人の特殊な脳の働きについては前章「不思議なお話No29及びNo40」で説明していますので、今回は省略させて頂きます。ただ思い出して頂きたいのは右脳が直感や感性を司るということですが、それだけでは心許ないのでもう少し深く掘り下げて見ましょう。
 まず左脳ですが、これは言葉そして文字、いってみれば視覚・聴覚による文字情報を処理して物事を認識し、或いは思考論理を組み立てます。それに対し右脳は視覚・聴覚は勿論のこと臭覚・味覚・触覚、いわゆる5感のすべての感覚情報を総合的に感じ取り、左脳へ伝えるわけです。
 この右脳の処理スピードは、左脳が一昔前のコンピューターのそれであるとすると、右脳はスパーコンピューターを何台つなげてお追いつけないほどだそうです。特に視覚による画像・映像、そして人の顔などのイメージ情報の認識は、高速かつ精度が高くまた記憶度の高いといわれています。 
 ここまで書いて、ふと、「不思議なお話NO27 お試しの原理」でも紹介したK・ウィルバー著「空像としての世界」の中に書かれた一文を思い出しました。右脳の特性として、全く次元の異なる事象をシンクロナイズさせる機能があるのですが、僕のこの思いつきはその一例に過ぎません。その一文をここに紹介します。
「脳構造が見、聞き、味わい、嗅ぎ、触るのは、時間的・空間的な振動数の精巧な数学的分析によるということは、すでに多くの研究所で感心するくらい多数の研究によって立証されている。ホノグラムと脳の両者がもつ不気味な特性は、組織全体にあまねく情報を分配することであり、その組織の断片はいずれも全体の情報を生み出すように記号化されている」
 これはスタンフォード大学の神経科学者カール・プリブラム教授の主張を要約したものなのですが、ちょっと解説しますと、この一文の最初の部分は読んで字のごとしで、脳による事物の認識は、その場(時間的空間的)で五感によって感受された振動数の数学的分析によるものだということです。
 続いてホノグラムという聞き慣れない言葉があります。これは皆様もどこかでご覧になったことがあるかと思いますが、いわゆる立体的な三次元映像のことです。このホログラムの特性は、その感光板の切り取ったどの一片に光りを照射しても、全体像が再構築されるということで、上に掲載した一文の「ホノグラムと脳の両者がもつ不気味な特性」とは、これが脳にもお当てはまると言っているのです。
 どういうことかと言いますと、たとえば人の顔形を例に取ると、その記憶は脳のどの部位というわけではなく脳の全域にわたって配分されており、脳の断片は他の部位が損傷してしまったとしても、ホノグラムと同様に脳の断片から人の顔の全体像を浮かび上がらせることが可能だということなのです。つまり、脳はいろいろな点でホノグラムのように作用していると結論しています。
 この高名な神経科学者カール・プリブラム教授は、この不思議なお話でも何度か紹介した世界的な物理学者デイビッド・ボームとともに、常識を旨とする皆さんなら卒倒するような新たなパラダイムシフト(常識を支える基本概念の転換)を提唱したのです。
 それは現実世界が、宇宙そのものさえ、脳の作り出したホノグラムであるというものです。現実世界を構成する、手で触ることができ、臭いもあり、目に見える固い実在は「時空を超えてただ振動数だけが存在する領域」から引き出されたもの、或いは脳がその領域にある母型(マトリックス)に感応して映像化したものだと言うのです。
 つまり、脳そのものの中に「時空を超えてただ振動数だけが存在する領域」が内蔵されており、デイビッド・ボームはこれを「内臓秩序」と呼んで、その領域においては全ての事物や出来事は時空に捕らわれておらず、もともと一つで分割できないものとして、個々は全体の内にあり、全体は個々の中にあるとしています。
 どなたか映画「マトリックス」を思い浮かべませんでしたか? 僕はあの映画を見たとき、映画の作者はこの「空像としての世界」を描いているのでは?と思ったりしました。神の存在をスーパーコンピューターに置きかえたのでは? と。言ってみればパロディとして。

 その映画はこんなシーンから始まりました。延々と続くカプセル。溶液で満たされたそのカプセルの中には人間一人が浮いています。それぞれの人間には電極が埋め込まれコンピューターに、そして他の人間とも繋がっています。人々はスーパーコンピュータが作り出す「内蔵秩序」と映像の世界の中で生まれそして死んでゆきます。この「内蔵秩序」には因果律や縁、或いは至高体験さえ組み込まれ、全ての人間の感情とその結果としての状況変化の母型(マトリックス)をも内蔵されています。
 ここでは神はスーパーコンユーターであり、現実世界は人間達の脳に映し出された映像世界という設定です。人間達は個々に分離されていますが、全体として繋がっていて、コンピューターの創造した内蔵秩序に従い、喜び、そして悲しみ、人生を謳歌する者もいれば、失意に沈む者いるというようにその生を生きているのです。いかがです、少しは二人の科学者が思い描く世界が理解できたでしょうか? 
 でも、良くできた物語ですが、何もスーパーコンピューターが作り出す映像の世界で戦わなくても、と思ったものです。主人公が使用済みとして排泄された場所があるのですから、スーパーコンピューターに戦いを挑むなら、まずそこを破壊して内部に入り込むべきでしょう。そこがやはり漫画です。

 随分と長いイントロになってしまいました。つい興奮して何を主題にしていたのか忘れかけていました。でもようやく僕の目指していた言葉が出てきたところで、最初のテーマに戻りたいと思います。「なんだよ、これからかよー」などと言わず、おつき合い下さい。僕の目指していた言葉とはこれです。
      「個々は全体の内にあり、全体は個々の中にある」
 
 ボームの提唱したパラダイムシフトの背後には、恐らく彼の一つの願望が隠されているような気がします。それは、電子や光子等の素粒子の放埒な動きの基底には顕現化されていない隠された変数の領域があり、その隠された覆いを取り払ったとき、放埒に見えた素粒子の動きに一定の法則性が導き出されるはずという願望です。
 ただ、彼の提唱したホログラフとしての世界は魅力的であり興味をそそられるのですが、僕にはちょっと首を傾げる部分がありました。それは、この理論を導き出した経緯に東洋思想や宗教的神秘体験という法悦の境地を念頭に置いたという事実があるからです。
 ボームは一次レベルの真の実在、そして二次レベルの我々の現実世界というように二つを思い浮かべているようなのですが、僕はその中間にもう一つの世界があると思っているのです。それは我々人類が生物として何億年もの長い年月を掛けて作り出した世界です。この世界は勿論一次レベルの下に位置し、現実世界と繋がっていて、神秘的な法悦、或いは悟りと言われる境地を人間に与える場ではありますが、ボームが憧れて思い描いた世界ではないと感じたからです。物理学者がそこに辿り着き、研究の途に着くにはまだまだ長い年月を必要とすると思います。
 実を言いますと、僕は「時空を超えた振動数だけが存在する領域」という言葉を目にしたとき、ふと「集合的無意識」という言葉を思い浮かべたのです。これほどぴったりと僕の心に飛び込んできた言葉はありません。僕は小説「予言なんてクソクラエ」の中で、主人公にこう言わせています。『集合的無意識は人々の想念波動の集合体なのです』と。
 その解説についても物理学の書物を参考にし、僕独自の論を展開しています。以下がそれです。
物質の本質についても、石井の得たインスピレーションは非常に単純なものだった。物質は突如何もない「空」から生じる(これは事実、以後一つの除き全て仮説)。どのように?実は「空」自らが振動して素粒子へと変貌するのである。物質の最小単位と言われるクオークも「空」の振動によって作られる。

  我々の体を構成する全ての原子は「空」の波動(振動)によって生じる。つまり我々は「空」から生じたというより(これは事実)、実は、「空」がその姿を変えているに過ぎず、物質化した「空」なのである

  これは、我々の心或いは意識というものも説明出来る。つまり、我々が「空」そのものであるなら、そこから生じる想念波動もやはり「空」ということになる。物質化した「空」から生じた想念化した「空」は、心とも意識とも呼ばれる魂そのものである。それが絡み合い縁を形成しながら集合的無意識を構成』していると。
 如何でしょうか?僕の推論は物理学を真面目に研究している学者から、それこそ非難と嘲笑を浴びることになるとは思いますが、僕は僕のインスピレーションを信じるしかないのです。

 さて、いよいよ本題に入りたいと思います。えーと、何でしたっけ? そうそう日本人の特殊性と日本の伝統文化についてでした。日本人の特殊性とは言うまでもなく右脳の働きが他の民族と異なるということですが、それが言葉(母音を右脳で解釈する)や虫の音によることをお話ししました。つまり、僕たち日本人は四六時中右脳を働かせていることになります。特にお喋りな人は一日中寝るまで右脳を酷使していることになります。
 この右脳の機能なのですが、先に取り上げたK・ウィルバー著「空像としての世界」では特に言及はなかったのですが、イメージの貯蔵は脳全体に配置されるということなので、「時間的・空間的な振動数の精巧な数学的分析」に関わっていると思われます。一つのホノグラムを作るのに大層な機械を使って手間暇掛かるのに、それを瞬時にやってしまうというのですから、我々の脳はたいした奴なのです。
 それはさておき、それともう一つ、右脳の機能に付け加えなければならないものがあります。それは「集合的無意識」にアクセスする機能なのです。ちょっと唐突ですが、これは間違いなくあると思われます。
 その前に、この集合的無意識がどういうものか紹介します。先の「予言なんてクソクラエ」から引用します。ご一読ください。
『この集合的無意識という概念を提唱したのはカール・G・ユングだが、彼に言わせれば、「それは、意識の心から閉ざされていて、心霊的内容、人が忘れ去り、見落としているあらゆるもの、またその原型的器官の中に横たわる無数の時代の知恵と体験を」を含み、人々を導き、役立っているという。そしてユングはこう結ぶ。「我々の意識などは無限の大海(集合的無意識)に浮かぶ小島のようなものである」』
 これは過去及び現在の人々が集積した知識がこの集合的無意識には詰まっていると言っているのです。そして、我々の意識は、信じられないほど膨大な領域、無意識という海に浮かぶ小島に例えられています。そして、この集合的無意識は人類の専売特許ではなくあらゆる生物の種が人間同様持っていることを僕は知っているのです。そして先ほどこの集合的無意識に関して「我々人類が生物として何億年もの長い年月を掛けて作り出した世界」と述べたことを思い出してください。
 その事例を紹介します。(この文章を書き始めた当初、「インターネットの文化人類学的影響」について、もう少し分かりやすく解説すると書いたのですが、明日から旅行と言うこともあり、今日中に仕上げたいので、そのまま引用することをお許し下さい)
『最初にこの事実を報告したのは、ニホンザルの研究者達である。在る島で、一匹の子ザルが餌のイモを海水で洗うと砂が落ち、しかも塩が効いて美味いことを発見する。この知識は大人ザル達にも伝わり、島の全てのサルがこれを実行するようになった翌朝、海を隔てた隣の島で子ザルが海水でイモを洗い始めたという。
 世界の動物学者を驚かせたこの事実は様々な実験により追認された。一つの例をあげると、マウスを使った実験がある。まずアメリカのマウス達に一つの迷路を学習させる。次にイギリスのマウス達に同じ迷路を学習させると、アメリカの半分の時間で学習を終えてしまう。逆もまた同じ結果となる。つまり、迷路の知識が海を隔てていたにもかかわらず伝わったのである。
 これら二つの例は、距離を隔てた同じ種が、獲得した知識を互いに伝え合ったことを示すものだが、スマトラ沖大地震では、野生動物達はいち早く危険を察知し難を逃れたのだが、彼らは、彼らの祖先が取得した知識、「地鳴りに続く地震、そして津波」という時を越えた知識を咄嗟に思い起こし行動を起こしたのである』
 これら事実は、一つの種(この場合マウス)は、或る一定数のグループが取得した知識を、その種全体の知識として何処かに貯え、個々のマウスはこれにアクセスしていたと考えられますが、人間の場合には、個々の収得した知識がそのままその何処かに貯えられるようです。その何処かとは、言うまでもなく集合的無意識に他なりません。
 しかしながら、人類は脳の異常な発達によって自我が肥大化したため、この集合的無意識という情報の宝庫にアクセスする能力を失いつつあり、さらに事態を深刻化させたのは、文明が宗教・民族という個々を分断する方向に進んでいることです。こうした現状を、「インターネットの文化人類学的影響」では、種の保存本能という観点から人類は危機的状況にあることに警鐘を鳴らしたのです。
 でもご安心下さい。歴史は不思議な民族を地上に残しました。それは日本人です。右脳の発達した民族が1億人以上いるのですから大したものなのです。その大した民族が、人類として最も恥ずべき過ちを犯したのですから(言うまでもなく3.11の福島原発事故)、その能力も大したことはないと言われればその通りかもしれませんが、ここで言えることはその能力を適切に使っている人々が、今のところ少数だと言うしかありません。今後に期待したいと思います。

 それでは、お待ちかねだと思いますので、そうした右脳の発達した日本人の伝統文化について、述べさせて頂きます。最初に、ずいぶん前に見たNHKのドキュメンタリーを紹介したいと思います。これまで僕の主張、仮説、或いは事実を念頭に置いてお読みください。

 それは歴史のある神社の大伽藍の修復を担った宮大工の話です。彼は当代一流の折り紙つきの宮大工であることは勿論なのですが、これまで経験したことのない規模の、前後左右四方向へ勾配をもつ寄棟造の屋根を作らなければなりませんでした。しかし、それほどの規模の屋根を作るための知識も経験も、それを示唆する古文書さえありません。
 どうしたと思います? 彼は勘だけを頼りに設計図より数十センチほど四方を高く仕上げたのです。もちろんそれは設計図通りではありません。では何故? 数年後にそこを取材したNHKのカメラがとらえたのは、自重で四方が下がり、かつての設計図通りの位置に落ち着いた大伽藍だったのです。
 もう一つ僕の見たNHKのドキュメンタリーのお話をします。今度は工作機械を製造する企業のお話です。工作機械とは製品を作る機械ですから、精密部品などの金型は1マイクロメートル(1000分の1ミリ)の正確さが求められるわけですが、その会社の金型は世界中から引きも切れず注文がくるのです。
 どの金型製作会社でもマイクロメートルを感知する研磨機を採用しているのですが、何故この会社の製品が評価されるかというと、表面が異常に滑らかで製品をどれほど生産しても、崩れることがないからです。ではどうやってそれを可能にしているのかといいますと、職人さんが指先、或いは掌で触って、凸凹を修正しているのです。その映像を見たときには、僕も目を疑いました。
 
 この二人の職人を見ていて気づくのは、その極端な集中力です。物質である木材や金属とまるで一体化するような集中力にはまさに圧倒されます。僕は何度も集中力が世の不思議と何らかの関係があるはずだと述べてきました。物事に極度に集中していると、不思議な偶然が引き起こされ、その人が求める何らかの解決策やそのヒントが与えられるということです。
 今回の僕の主張、右脳が「集合的無意識」にアクセスする機能を持っているとすれば、彼らはその知識や情報、或いはその感覚さえも、現在生きている人も含め、過去に生きた人々のそれを、集合的無意識から引き出しているということなのです。
 日本人は多くの伝統文化に「道」という文字を付けます。例えば武士道、柔道、剣道、茶道、華道といった言葉がすぐ思い付くはずです。これは、日本人の特殊性に基づいているのです。つまり、日本人の持つ持続的で極端な集中力、そして直感力によって「道」を極める方々を輩出してきた結果と言うことになります。
 日本の伝統文化、はては中小企業の職人技も、日本人の集中力と右脳のずば抜けた機能があるかぎり、滅びることはありません。ご安心ください。 

 如何でしたでしょうか?僕たちの意識を何処までも深く深く潜ってゆくと、そこには全ての人々を結びつけている集合的無意識へと辿り着くことができるというお話でした。僕の言いたかったこと、それは
   「個々は全体の内にあり、全体は個々の中にある」
                             ということです。
 

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